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非常識の常識

青木 慎太朗(元関西Student Library会長)
『SLニュース』2003年10月号掲載 → 2004年3月号再掲載


1.なぜ書くか?
 本題に入る前に、一言申し上げておきたい。それは今年3月の投稿記事についてである。心のバリアフリーをテーマにした連載の中で、「無題@/匿名」というものがあった。難解な概念めいた用語を多用している割には議論の中身は大したことではない。中身についての印象より、執筆者のいい加減さと無責任さに腹が立った。
 匿名/無題はその極めつけであるが、それ以外にも、いい加減に、無責任に投稿する人がいる。最近の会報は――墨字に限ったことしか分からないが――誤字が多い。私は編集者に毎回のように非難めいたコメントをしているが、投稿者側にもその責任の一端はあるだろう。また、投稿を募集したにもかかわらず、前号では(私も含めてだが)誰も応じなかった。やはり読者ももう少し積極的に参画すべきなのではないかと私は思う。
 だから、なのかどうかは分からないが、今回は私が寄稿させていただくことにした。最近思うことを少しばかり述べさせていただきたいと思うが、当然、読者の多数は批判するだろう。それは一向に構わないし、それでこの会報が盛り上がるとすれば光栄である(と編集者でもないのに勝手に言ったりする)。

2.疑う事は楽しい
 既存の価値観を信じず、疑う事は実に楽しいと思う。逆に言えば、既存の価値観を信じて、と言うよりもそれに縛られて生きる事ほど面白くない事はない。
 私が現在、もっとも疑っているのが「常識」である。「そんなの常識でしょ」「あいつは常識がない」など、日常会話でよく耳にする言葉ではあるが、では「常識」とはいったい何なのか? そして、その「常識」とやらは正しいのか?

3.「常識」の自己矛盾
 常識とは、「誰が考えても…」といった意味合いで使われるが、実際、そうでない人(=常識の通じない人)はいる。だから、少なくとも、「誰が考えても…」とは言えない。
 実際に「常識」という言葉が用いられるのは、例外なく全ての人がそれを「常識」としている時ではなくて、大多数の人がそう信じている時である。つまり、「常識」等というものは多くの人たちの価値観の共通部分でしかない。

4.「常識」は正しいか?
 では次に「正しい」かどうかを考えてみよう。結論から言えば、そんな事は分からない。「常識」に沿っている事を「正しい」と錯覚している人が多いようだが、それは単に多くの人の価値観と合致しているという事でしかなく、それが正しいか/正しくないか、等という事は、誰にも分からない。

5.「常識」という安心/「非常識」という不安
 しかし、「非常識」とか「常識がない」と言われれば、多くの人は不安になる。やはり自分が多数者でいたいからなのか。確かにそれもあると思うが、私はもっと大きな理由があると思う。
 それは、この社会が「多数者に心地よい社会」だという事である。私は海外で生活した経験はないが、私の知る限り、世界の多くが「多数者に心地よい社会」ではないだろうか。「多数者に心地よい社会」が必ずしも「少数者が住みにくい社会」であるとは言えない(だろう)が、「少数者が住みにくい社会」があるならば、それは改善されるべきだ。それに少数者も、「非常識」というレッテルのもと、不安を抱き、肩身の狭い思いをする必要はないはずだ。

6.障害者は「非常識」?
 こういう言い方をすると、「何て事を言うんだ!」と非難されかねない。だから、いきなりは書けなかった。しかし、見え、聞こえ、話せ、歩け...というのが人間の能力とされていて、それに何らかの欠損のある人は「障害者」とされている。そこに「人間の常識」を疑うための契機が介在する余地はないだろうか?
 この例を紹介すれば、「お前は学者より作家が向いている」と言われた事があるが(自分でも少しそう感じているが)、今後宇宙開発が進み、そこで人類はある星を発見するとしよう。その星には地球よりも遙かに多くの人(のようなもの)が住んでいる。地球人類との大きな違いは、彼らは自由に空を飛べることである。地球人類との行き来が始まったが、その中で、地球人類は少数派である。そんな時、自由に空を飛べない我々地球人類は全員「障害者」にならないか?
 この社会には「人間はかくあるべし」という「常識」が存在しており、「健常者」というのがまさにそれであるが、この「常識」からすれば、障害者は「非常識」になるということだけは明らかだと言えよう。
 「非常識」とは聞こえが悪い。しかし、「常識」等というものは、そもそも社会の多数派(=マジョリティ)が作り出した物差しでしかないのだ、ということは、既に述べてきたことから理解していただけるだろう。だから「非常識」でよい。「非常識」は悪い事ではない。

7.「非常識」という常識
 人間は誰しも他人と違う。顔・形・能力・性格・価値観に至るまで、当然違っていてよい。時には他人と競わなければならない場合もあるが、そこで優劣が付くのはその競争の対象となった能力であって、(唯一の例外を除いては)その人そのものでも何でもない。だからこそ、“Number oneよりOnly one”なのだろう。
 「非常識」という言葉を、倫理観がないとか、他人に迷惑をかけているといった状況に対して使う事がある。夜中に大きな音で音楽を聴くとか、傍若無人な態度を取るなどといった意味での「非常識」に対し寛大になれと言う気はない。これは多数の人が共同で生活する上で必要な規範(ルール)であり、社会には当然必要なものだ。
 しかし、今日、「常識」の名の下に、価値観の違う人(あるいは集団)を馬鹿にし、軽蔑する傾向が見られる。自分の価値観は正しく、相手が間違っていると決めてかかっている。自分の主張が「常識」と偶然合致しているなら、それは単に多数の人が支持してくれている、多数の人の共通の価値観の範囲だ、という事でしかない。だから「非常識」と言われた人も悲観する必要はない。必ずしも自分に問題があるわけではなく、自分に問題があるように思わなければならない社会に問題があるのかも知れない、と考えてみてはどうだろうか?
 「常識」等というものは、実に曖昧なものである。その時代・場所によって異なってくるだろうし、究極的には、「常識」を口にする人の数だけ「常識」があるという事もできるだろう。そして、それは既に「常識」とは言えない。
 むしろ、他人が自分から見て「非常識」であるということこそ、この世の「常識」なのではないだろうか。


UP:20050223

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