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停滞する関西SLのために──の準備

20040907 青木 慎太朗
2004年度夏合宿(神戸)配付資料に寄せて


■非常に基本的で、しかし分かりにくいもの
 「関西SL」という団体の存続の意義というものは、いずれ何処かで/誰かが考えたり、言ったりしなければならないテーマであるかも知れない。私たちが所属している集団や組織――それが当然の如く所属しているものであるか否かに関わらず――が、本当に必要なのかどうか、考えてみれば疑わしいものはたくさんある。家族・町内会・市町村・都道府県・国など。さすがに、家族が必要でないという事を言うのは反抗期の中学生だけかも知れないが、最近のニュースを見ていて、そういうレベルの問題でもないような気がする。同居人と家族の違いは何か、考えてもよい。国についても、ない方がよいという人もいれば、必要だという人もいて、それぞれに理由がある。そして、サークルももちろん、このうちの一つである。
 ここでは、私が現在考えていることを若干述べさせていただくとともに、自分自身が関西SLという団体の運営に携わっていたとき、どのように考えていたかを知っていただく手がかりとして、参考までに、会報に載せた原稿を二つ紹介する。

■「学内環境とSLの行方」(『SLニュース』2001年6月号収録)
 二十一世紀最初の年も半年が過ぎようとしていますが、会員のみなさまはいかがお過ごしでしょうか?
 思い起こせば、関西SLも昨年で創立三十周年。この三十年を長いと感じる方も短いと感じる方もいらっしゃるでしょうし、それは何に注目するかで変わってくると思いますが、視覚障害者の学内環境問題ということに注目すれば、私は長い年月であったと思います。
 この三十年の間に、時代背景が大きく変化したことは否めません。高度経済成長期、バブル期においては、いわゆるバリアフリーといった考え方は定着しておらず、視覚障害者の学内環境は、今とは比べものにならないほど芳しからぬものでした。
 90年代初め頃から、ようやくバリアフリー思考が姿を現し、それと時を同じくするかのように、学内環境も徐々に改善されてきました。そしてそれには、視覚障害学生の当事者団体である関西SLが、アンケート調査の結果などをもとにして大学側に対して行った学内環境改善要求や提言も、その一翼を担ったと考えています。

 世紀も替わった今年、視覚障害学生の学内環境の実状を調査すべく、学内環境アンケートを実施します。そしてそれをもとにして、さらなる改善を大学側に要求・提言してゆきたいと考えています。単に「改善せよ!」と要求するのではなく、どこをどのように改善して欲しいのか、こういった対策の方が効率的である、等といった声を大学側に届けることも、学内環境問題を考える上では重要です。学内環境改善の計画段階から、当事者が参画することはもっとも効率的です。
 私は、今後の学内環境問題とそれにSLが同対応してゆくべきかについて、今年度一年間運営の舵取りを任された立場から、いろいろと考えているわけですが、学内環境は今後ますます改善されるかどうかという点で、両極端な答えが思い浮かびます。
 バリアフリー、ノーマライゼーションなどのあおりを受けて、今後ますます視覚障害者の大学進学が増え、学内環境も充実してくるというのが一つ目です。これは大いに結構なことでしょう。しかしこれは理想でもあり、目標として掲げることは大切ですが、それに至るプロセスにも目を向ける必要があります。
 一方、少子化に伴う十八歳人口の減少、臨定枠の廃止*1などによって、私立大学の経営が今後ますます厳しくなることは否めません。また国立大学に至っても、その経営の効率化を図るべく独立行政法人化*2しようという議論が政府内で為されています。こうした情勢にも目を向けつつ、経営効率化の裏で障害者が犠牲にならないよう、SLとして、また個人として、我々は障害学生の学内環境改善という視点から、こうした問題を見つめてゆく必要があるように思います。

 視覚障害学生がより充実した学習環境のもとで学術・研究活動が営めるようにするにはどうすればよいか、みなさんとともに考え、議論し合ってゆきたいと思います。


1. 臨定とは臨時定員増の略。1986年の入試から、当時急速に増えていた大学志願者の受け入れ先を確保するため、文部省の施策として出された。これにより、各大学は定員を増やし、ちょうどバブル期ということもあって、敷地や設備などに積極的に投資した。しかし、十八歳人口は減少の一途をたどりはじめ、この制度は廃止されてもとの定員数に戻すことになった。この結果、大学の学費収入は減少し、そればかりか、バブル期の過剰投資が相まって、経営が危機的状況に陥っている私立大学もある。
2. 現在、国が直接行っている事業で、直接行う必要はないけれども民間に任せてしまうこともできない(その事業を実施してくれない場合に不利益が生ずる)ような事業を行う機関として、新たに位置づけられた事業主体。独立行政法人化することで、事業の効率化をめざし、さらにその運営についての自主性を尊重しようというものだが、事業の効率化の傍らで、障害学生向けの設備投資などが削減されるのではないかとの懸念がある。

■「教育を受ける権利(学習権)と学内環境」(『SLニュース』2002年3月号収録)
 我々の活動の中心課題は、学内環境改善を大学側に訴えてゆくこと、そしてその前段としての現状把握と情報交換です。これは、創立以来三十余年間、変わることのないものであります。
 憲法や教育基本法は、教育を受ける権利をすべての国民に対して平等に保障しています。大学はその機会を我々に与えるための手段として設置されている機関とであるということは、改めて述べる必要もないことです。
 教育は個人の成長・発達、人格形成や社会性を養うために不可欠なものであり、将来の国家や世界を担う国民、ひいては人類の福祉に貢献する人材を育成するためにも重要な位置を占めるものです。そして、こうした理想を実現するためには、教育制度を充実させ、すべての国民に教育を受ける権利を保障することが不可欠なのです。
 教育を受ける権利とは、単に授業を受ける権利という狭い意味で解されるものではなく、学問の自由に通ずる自主的学習をも視野に入れた学習権として、今日では捉えられています。大学内を例にとって述べるなら、講義を聴講することのみが権利なのではなく、そこから発展して学習することも教育を受ける権利に含まれるわけです。
 視覚障害学生にとっての学習権保障を大学側に求める際、我々はどうしても講義での配慮や点字教科書保障を考えがちですが、設備面でのバリアフリー、公開講座などの情報の公平な提供、図書館へのアクセシビリティーなども含めて考えるべきであると思われます。そしてこの学習権保障は大学内で完結するものではなく、博物館などの学外の文化施設においても、そのアクセシビリティーが保障される必要があるものです。
 今年度は学内環境アンケートを実施し、学内における学習権保障の実態を把握することに努めて参りました。我々の活動の目標は学内環境改善であって、学生の当事者団体という限界性から判断して、それ以上に視野を広げて活動を展開させることは困難です。しかしながら、少なくとも皆さんの意識の片隅に、視覚障害者の学習権は学内環境整備に限定されるべきではない、ということを置いていただきたいと思うわけです。その意味でも、昨年十二月に実施した国立民族学博物館への訪問もそのことを意図したものであり、同企画がこのことを皆さんにご理解いただくための一翼を担えたのであれば幸いです。
 「学内環境改善は目標であって目的ではない。目的は学習権の平等な保障であり、理想を述べるならば、あらゆる分野における機会の平等、アクセス権の平等が実現されるべきである。しかし、これは他者から与えられるものではなくて、当事者が主体的に関与しながら獲得してゆくものである。そのためには、当事者を含めた将来の国民がこのことを自覚し、その手段を模索してゆくことが重要である。そのことが目的達成への第一歩になるであろう」というのが、私の考えです。このように考えてみれば、我々関西Student Libraryの活動は、目的達成に向けたプロセスとして位置づけることができると思います。
 最後に青木流SL論を紹介させていただきたいと思います。SLと聞けば、多くの人が蒸気機関車を想像されますが、私はこれがあながち間違いではないように思っています。関西SLで言うSLとはStudent Libraryの略でありますが、もう一つの意味、則ち蒸気機関車的要素が隠されているというのが青木の解釈です(創設者がそのように考えておられたとは思っていません)。
 蒸気機関車は、終着駅というゴールに向かってレールを突き進みます。客車を後ろに従えて、途中の駅で、同じ目的に向かおうとする人を乗せ、先頭を切って進むわけです。視覚障害学生にとって学内環境改善とか、私が先程から述べてきたような目的は、少しずつプロセスを踏んで達成されるものです。そのプロセスというレールに乗って一歩ずつゴールを目指し、先導役として突き進むSL。それが関西SLのもう一つの姿なのではないでしょうか。機関士は交替しますが、今後ますます同志を増やし、新たな客車を連結し、また満員にして、終着駅に向かっていって欲しいと願っております。
 今年度、関西SLをご支援いただき、ありがとうございました。今後とも関西SLの活動に対するご支援をよろしくお願い申し上げまして、退任の挨拶とさせていただきます。

■理由にならないことが、理由になってしまう
 SL存続がどうのこうのという議論が起こっているにも関わらず、会員数が減ったとは、感じない。行事の参加者は確実に減少傾向にあり、役員が定員割れの状況であることは確かである。この事から、「興味はあるが、運営には関わらない」という考え方が増えているのだろうという推論が成り立つし、現にそういう指摘は多い。
 しかし、組織を成り立たせるためには、誰かがやらねばならない。「組織は必要だが、運営は人任せ」というのは、個人の組織に対する関わり方として、無責任ではないだろうか。会社で、自分は与えられた仕事はして、しかしそれ以上のことには興味がない。いや、自分の賃金のことになれば興味はあるが、自分は会社側との交渉には関わらず、仕事が済んだらさっさと帰りたい。確かにこういう考えの人は増えている。では、みんながこういう考えになってしまったらどうなるか。労働条件を改善して欲しくても、まとまって行動できない。まとまる拠点がない(あるいはあったとしても、力を失っている)。最終的に困るのは誰か、少し考えれば分かる問題であろう。その時代には自分は定年退職していたり、既に亡くなっているから関係ない、というのは、子孫に対して無責任きわまりない。目に見える範囲で仲間のことを考えればよい、というわけではない。
 これと同じようなことが、関西SLにも言える。これまで、多くの先人たちのおかげで、今日の恵まれた――少なくとも昔よりは。しかも大学による――環境で学生生活を送ることができるのである。降って湧いたように、大学が環境を整備したのではない。そして今でも問題があれば、「SLに来れば相談できる」という期待を、視覚障害学生に抱かせるだけの機能は果たせているのではないかと思う。点訳サークルの人たちがどう考えているかは、よく分からないが、問題に直面したとき、どうするかを相談する先として、他大学の点訳サークルや視覚障害者は相談相手に適当であろう。
 点訳も時代が変わり、点訳よりもテキストデータ化を望む視覚障害学生も現れた。こうしたニーズがあることを知り、点訳サークルが柔軟に対応してもよいのではないかと、私は思う。教科書を大学が用意する、というところは増えてきている。しかし、では参考文献はどうなのか、他に読みたい本があればどうなのか・・・。別に教科書点訳を大学がやるようになったからといって、やることが無くなったということにはならない。どういう事をすればよいか、同じ点訳サークルの仲間どうしで語り合える場として、関西SLがあってよい。もちろん、これが関西SLである必要はないが、既にネットワークができているのだから、(それが粗悪品でもない限り)使えばよい。
 関西SLの運営が大変だから、やりたくない、という声があるようである。もちろん、仕事の内容は工夫されてよい。組織運営は質を低下させない程度に効率化されなければならない。しかし、「忙しい」という切り札は使うべきではない。これはもっともな理由であり、最後の切り札であるように見えて、実は単なる言い訳にしか、あるいはその程度のものにもならない。
 私たちが運営していたときより、会員数が急増したり、行事内容が急に複雑になっていたりするなら、「忙しい」というのも分からなくはない。あるいは、大学のカリキュラムが大幅に変わり、勉強しないといけないことが数倍増えた、とでも言うなら、時代の流れで仕方ない、現役学生はご多忙なのだと諦める。
 しかし、上記のようなことは起こっていない。あえて言うなら、役員数の減少に伴い、役員一人当たりの仕事量が増加し、それで忙しくなったという見方もできなくはないが、情報通信技術の発展で、事務処理や行事連絡などは格段に簡素化されたはずだから、これも理由とは思えない。メールが普及する以前は、役員が個別に行事連絡を電話で行っていたのだから、時間もコストも、今より多く費やしたことだけは確かである。
 さらに言えば、「忙しい」が問題になるのは、役員を引き受ける前の人たちである。役員数の減少を理由に、役員が言うなら分かるが、そうでない人たちがこれを理由とする。しかも、どういうわけか、至る所で「忙しい」が切り札になってしまっている。
 先日、旅先の料理店で、忙しそうに働いている店員がいた。混んでいるときに来て、悪かったかな、と一瞬思ったが、その仕事ぶりを見ていて、この人は本当に忙しいのではなく、自分で忙しくしているのだ、ということが分かった。要するに、要領が悪いだけなのだ。それで、空腹のまま「味噌カツ定食」を30分近く待たされたのだから、こっちはたまらない。
 私自身、要領がよい方だとは思っていない。先日、某団体のキャンプに携わり、その帰りに参加者の一人から、「自分で自分の首締めてるよ」と言われた。はじめ、他の実行委員のことだろうと聞き流していたが、よく考えてみると、自分自身も忙しく振る舞っていた。「大変ですね」と労ってくれるが、私より要領のよい人にとっては、「もう少し仕事内容を整理した方が…」となる。

■やってみないと分からない
 私が事務局長として役員をしていた頃、おそらく先輩方にとっては、要領の悪いダメな奴、だったのかも知れない。関西SLは学生サークルと違い、OB・OGの方々も関わっているから、何か問題があったりすると、そういう人たちが指摘してくれたり、場合によっては協力してくれたりする。「自分には自分のやり方があるから、好きにやらせてくれ」と思っていても、いろいろと口出ししてくる人を、時に口うるさいと思うこともある。
 しかし、これは子どもが親や教師に対して抱く感情と通ずるところがあるように思われる。だから、先輩たちにそのような感情を持つことはある意味当然だし、私がそのように思われても仕方ないと思うのだが、そういった指摘をされ、考え、仕事をこなしていくうちに得られるものがある。それは学校で得られるわけでも、本の中から得られるわけでもなく、実際にやってみないと得られないものである。そしてそれらは、一生の財産になる。
 そういう点からも、関西SLにはなくなって欲しくない。

■手段は目的とは違う
 これまで書いてきて、結局のところ、「関西SLにはなくなって欲しくない」と言うことしか、本論については述べていないような気もしなくはない。もっとも、これが結論である。しかし、では組織を残しさえすればよいのか、というと、それは違う。組織を残すことだけが活動の目的になったなら、もう、そんな組織はなくてもよい。
 関西SLという団体の目的は何か、再三述べてきたから再度述べないが、その目的が、時代の流れで変化することは構わない。関西SLのような団体の場合、むしろ会員のニーズに応じて柔軟に変わる方が良い。合宿が1泊2日でも、その方が良い、とみんなが思うなら、別にそれでも構わない。ただ、私はそうではないのだが、合宿という機会でもないと遠くに外出することがない、という視覚障害者はきっといるだろうし、そういう楽しみ、ある意味でニーズは大事にしてもよいのではないかと思う。私が2泊3日にこだわってきた理由の一つはそれだ。だが、年に二度ある合宿の片方が短期・安価・近場というのは、それでもよいと思う。

■忌憚なく発言できる場
 関西SLは、メンバー誰もが忌憚なく発言できる場であって欲しいと思う。点訳サークルとしては、どういう活動をしたいか、それに対して視覚障害学生は、むしろこういう事をやって欲しい、等。そうしないと、点訳サークルは活動目的を見失い、視覚障害学生の側も、点訳サークルには何も頼まず、余計に点訳サークルはやることがなくなる/分からなくなる、という悪循環に陥る。それを避けるためにも、それぞれが忌憚のない意見を出し合える場が必要だし、単に場所(=スペース)があるだけではなく、一種のコミュニティとして機能していなければならないだろう。
 関西SLには、そういう役割を担うという仕事があるのではないだろうか。


UP:20050223
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