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−障害はリスク、治療の対象か?−

2005/09/01 『福祉のひろば』2005年9月号
(連載:「バリアフリーな社会をめざして」)
青木 慎太朗((独)メディア教育開発センター / 立命館大学)


 この社会は、見えないより見える方が便利なようにできている。それゆえに「ある治療を行った結果、今以上に見えるようになるなら、その治療を行うべきである」といったことが、とりわけ医療に従事する人たちの間から聞かれる。この二つの事柄は互いに連関するように見えるが、しかし考えてみるとおかしな話である。
 ややもすると私たちは、治療されたり改善されたりするのが個人であるかのように考えてしまいがちであるが、見えないでいても不便でない社会であるなら、そもそも「治療した方がよい」とは当然のようには言えなくなるだろう。見えるようになることが本人にとって幸せであるかどうかも分からない。見えないでいても不便でない社会になることの方が幸せであるかも知れないし、見えないことをネガティブにとらえて治療に一生を捧げるよりも、見えない人生を楽しむ方が幸せであるかも知れない。少なくとも、見える人生と見えない人生を同時に体験できないのだから、比べようがない。そうしたことを抜きに、何が幸せであるかといったことを、一方的に決めないでくれと言いたい。
 けれども、こういったことを言っただけでは、なおも説得力に欠けるかも知れない。そこで、個人の幸せは他人にははかれないということを、もう少し一般的な例で考えてみたい。恋愛関係において、当人たちはもとより、周囲もが祝福するカップルであれば問題はない。周囲は「幸せそうね」「お幸せに」と言うくらいである。しかしそうでない場合、「あんなやつといると苦労するぜ」とか、それくらいならまだしも「君が不幸になるから別れた方がよい」とまで言う。友達思いなのかも知れないが、その人の幸せなんて、周りが決めるものでもない。「あの男はカッコつけてるだけだ」「あの女はコケットリーだ」と言ったところで、当人はそれを分かっている。分かっていて、なおも相手が好きだというなら、それはそれで幸せであるかも知れない。あるいは、本人が気づいていなくとも、周りが気づかせてやる必要は必ずしも無い。
 リスクというと、ない方がよいものであり、たとえば保険では障害をもつことはリスクとされている。そういったリスクを回避する動きがある一方で、リスクと共存すること、個人でそれを負わなくて済むこと=社会で負うことを考えることを忘れてはならないだろう。リスクと考えられるものを抱えたままでも幸せであり続けることができる社会にするにはどうすればよいか、リスク回避の発想からは生まれにくい考え方だろうが、重要である。そうすれば、周囲にとやかく言われず、本人が幸せだと思う生き方をすることができるだろうから。
 さしあたり、ここでは障害を治療の対象と捉えたり、リスクと捉えたりするといった、今日支配的な考え方に対する問題提起を試みた。それは人の幸せなど、他人にとやかく言えるものではないからなのである。


UP:20051215
原稿