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老人、タクシーに乗って仙台へ
(与えられた題)

2005/10/01 青木 慎太朗((独)メディア教育開発センター / 立命館大学)


 *これはすべてフィクションであり、登場する人名等は実在するものとは一切関係ありません。

 十月の東京は涼しいというより、肌寒さも感じられるほどになっている。一月前なら半袖で暑い暑いと言いながら、時に額の汗をぬぐいながら歩いていたであろう人たちも、長袖のシャツをまとっている。あと一月二月もすれば、コートを着込んで凍えているのだろう。常日頃人々のちょっとした動きにも目をやっているのだから、そうしたことを、普通の人以上に感じ取ってしまうのだろう。こういう季候のよい時期は、行楽に出かける人は多く、その点でタクシーに対する需要もないわけではないが、暑いから歩くのが嫌だ、寒いから少しでも冷えた体をいやしたいといった利用は期待できない。どっちが儲かるのか、ついついそういった丼勘定もしてしまうのだが、そのうち忘年会の季節にもなると、酔っぱらいがたくさん利用してくれる。こういう客は嬉しいやら、悲しいやら。思いもよらず長距離を走らされることもあるのだ。自慢話を続け満足げな顔をしている泥酔客もいるが、ちっともおもしろくないのにはまいる。コミュニケーションの取り方は人それぞれなのだろうが、高圧的な態度で自分を見下したような物言いをする客がいちばん困る。腹が立つが、それを顔に出したり、態度にしてはならない。
 児島の勤めるタクシー会社は決して大きくはない。都内には大小のタクシー会社や個人タクシーを合わせると約八万台のタクシーが走っている。もちろん、それだけ人口が多いから台数も多いのだが、不景気の煽りを受けて、タクシーの利用は減っている。タクシー乗り場に並び客待ちをしているより、都内を走り回り、手を挙げてくれる客を素早く見つける方が、客を得られると児島は信じている。客待ちの方が時間さえ待っていれば確実に客は来る。しかし、そうやって並んでいると、どうしてもその間に客を逃がしてしまう気がする。それに、乗り場まで行かなくても、乗りたい場所で手を挙げればすぐに乗れるというのが、バスや電車にはないタクシーの良さなのだと考えていた。そういった点で、児島は自分の職業に誇りをもっていた。
 昼過ぎ、子連れの女性が路傍で手を挙げた。
「上野駅まで」
という。決して美人とは言えないのだが、落ち着いた感じのおそらく二十代後半ではないかと思われる女性だった。黒髪のストレートは、その落ち着いた面持ちを強調する。信号待ちの時、バックミラー越しに彼女の方に目をやった。やや長めの前髪が額を覆っていた。しかし、そこに朱く腫れあがった痣のようなものがあるのを児島は見逃さなかった。
 信号は青に変わり、車は上野駅に向かって発進した。
「お腹がすいたよ」
 おそらく五歳にはなっていないであろう。子どもが母親に食べ物を求めている。
「タクシー降りたらね」
 母親がそう告げたが、子どもは不満げだった。決してその言葉に肯く様子もなく、また納得しているようでもなかった。

 タクシーが上野駅前に着いた。よく喋る客にはよく喋る乗務員として応じる児島だが、この女性は行き先を告げるほか、まったく言葉を交わさなかった。
「どうも」
と、それだけ告げて、料金を支払った女性は、子どもを連れて足早にタクシーを降りていった。東京の北の玄関口、上野駅。「上野発の夜行列車・・・」という歌にもあるように、東北・北海道方面への列車はこの駅が始発だった。今でも在来線は上野駅を発着駅としているが、東北方面への大動脈である東北新幹線は、東京駅まで延長されたため、上野を経由せずに北に抜ける人が多くなってしまった。
 女性客を乗せる前に早昼を取っていたので、児島の方は決して空腹ではない。このまま上野駅前のタクシー乗り場で客待ちをしてもよいのだが、児島はいつものように走り始めた。

 上野駅を離れて二・三分走った頃だろうか。女子大生ふうの、やや背の高い女性がタクシーに向けて手を挙げているのを認めた。
「しめた、客待ちしてるよりやっぱりよかった」
 児島は正直、そう思った。
 近寄ってみると、女性の陰に隠れるように、老人の姿が見えた。車を停め、ドアを開けると、女性は老人の手を引いて近づいてきた。
「気をつけてくださいね」
と、女性は老人に言いながら、老人をタクシーに乗せ、
「では失礼します」
と、児島と老人に向かって一礼して、退いていった。
(乗るのは老人一人なのか)
 児島はちょっぴりショックだというのが正直な気持ちだった。老人が車の中に落ち着くと、ドアを閉めて
「どちらまで?」
と聞いた。客を乗せると当然のようにやっていることだ。老人が何か言ったのだが、児島にははっきり聞き取れなかった。いや、聞こえたのだが、聞いたことを受け入れたくなかったということなのかも知れない。児島は老人の言葉を理解しようとした。もし、自分が聞いたことが間違いでないなら、この老人は「せんだいまで」と言った。始めに頭に浮かんだのが「仙台」だった。しかし、それなら遠すぎる。それに上野駅から新幹線の乗れば二時間で行ける。それなのにタクシーを使うことはちょっと考えにくいだろう。となると、他に「せんだい」というところがあるのだろうか。九州に「川内」というところはあるが、それなら「仙台」よりも遙かに遠い。これなら、新幹線というより飛行機だろうか。
 しばらく悩んだ児島は、東京に専修大学(専大)があるのを思いだした。専修大学へなら、何度か走ったことがある。
「専修大学ですね」
と、児島は老人に確認した。
「はっ?」
 老人は首をかしげている。
「さっき、専大と仰いましたよね?」
 児島は再度確認を試みた。
「ああ」
「専修大学でしょ?」
「いや、大学じゃない。『せんだい』だ」
 この会話を通して、児島はだんだんと自分が始めに考えていたことが当たっているのではないかと不安になってきた。
「せんだいって、まさか東北の、じゃないですよね」
と尋ねつつ、児島は不安を禁じ得なかった。もし、「そうだよ」とあっさり言われたらどう対処してよいのか、戸惑っていた。
「だから、そう言ってるじゃないか」
 老人の返答はこうだった。
(そうあっさり言わないでくれよ)
と、児島は思った。
「せ、仙台ですか。あのさ、お客さん。上野駅すぐですよ。そこから新幹線で行けば速いですよ」
と、とりあえず言ってみた。
「ああ、知ってるよ。でも乗らない」
と老人は返してくる。
「それに、新幹線の方が安いよ」
 改めて児島は言ってみた。
「別に、安く行きたいわけでもない」
 しばらく呆然としている児島に、老人は
「このタクシーは、仙台には行ってくれないのか? ダメなのか?」
と迫ってくる。
 児島はとりあえず無線で会社に連絡を入れることにした。
「あっ、児島ですけど、お客さんが仙台まで行ってくれって言うんですが、どうしたらいいでしょう?」
 会社も驚いた様子だったが、
「せっかくのお客様だ。行ってくれるか」
という回答だった。
「では、これから仙台まで行かせていただきます」
 児島は老人に告げた。老人は満足げな様子だった。

 やはり不思議なのだ。終電に乗り遅れ、夜行にも乗れず、それでもどうしても急いで行かないといけないという客なら仙台まで行けと言われても納得はできるのだが、こんな白昼、しかもよりによって上野の駅近くで「仙台まで」と言われるとは、到底思ってもいない。仙台まで走る心づもりはしていない。いくら車を走らせるのが仕事とはいえ、長距離を走るには気合いがいる。今日中に帰ってこれるのかとの不安もある。更なる問題はこの老人だった。まさか痴呆症ではないのか、仙台に着いたら「自分はこんなところに来たいなど言ってない」とか言い張るのではないだろうか、そうしたとき、誰が責任を取ってくれるのだろうかと、考えれば考えるほど、心配になってきた。
「高速、使いますよ」
 この距離なら、ある意味当たり前なのだが、高速代も後で請求することなので、予め確認しておいた。老人は黙って肯いた。
 首都高速に入ったあたりで、それまでほとんど会話がなかった車内に会話が生まれた。切り出したのは児島の方だった。
「タクシーで仙台って、珍しいですね。また、どうしてなんですか」
 控えめに聞いてみた。
「死にたくないからだよ」
 老人の答えは意外だった。
「死ぬ? どうしてです?」
と聞き返した児島に、老人は答えた。
「電車に乗るのは怖い。危険だ」
「危険って?」
「ホームから落ちないかどうか、がだよ」
 観察力のある児島だが、「仙台まで」という突拍子もない言葉以来、その事で頭がいっぱいになっていた。リュックサックを背負った老人は、白い杖を携えていたのだった。

 一人歩きをする盲人の、少なくとも三人に一人は駅のホームから転落した経験があると言われる。視覚障害者にとって駅ホームは「欄干のない橋」と形容されている。「落ちて一人前」などという皮肉も視覚障害者の間では言われていたりする。多くの視覚障害者がホームから転落し、時に大けがをし、場合によっては命を落としている。ホームには点字ブロックが敷設され、安全柵やホームドアなどが設置されている駅は増えているが、それでもなお犠牲者は出続けている。
 視覚障害者のホーム転落事故をめぐって裁判になったケースもある。裁判では、安全柵の設置は要求できず、損害賠償請求訴訟という形を取っているが、そこでは「大量高速輸送の円滑」と「視覚障害者の安全な駅利用」とが秤にかけられた。視覚障害者のホーム転落事故というものを、現代損害賠償論で語ることはできるだろう。

〈現代損害賠償論の三つのテーゼ〉
 一、産業の発展を止めることはできない
 二、(そのためには)少数の犠牲はやむを得ない
 三、損害に対してはお金を払う

 大きな事故を起こせばマスコミが取り上げるのだが、マスコミがほとんど取り上げない、したがってほとんどの人が知らないところで、鉄道の円滑な運用のもとで犠牲になっている人たちがいる。その犠牲をなくすための安全対策は相当の費用を要するのだが、そうすると運賃が値上がりする、等の理由から、安全対策は放置されたままになることがある。一つに、これは「最大多数の最大幸福」の帰結である。そして、生命に関わる極めて重要な問題だから、そのまま放置していてよい問題ではない。では、誰がどのように取り組むべきなのか。当事者たちが改善を働きかける運動をしているが、交渉の過程で担当者が次々に変わっていき、まとまりかけていた話がまとまらないといったことは茶飯事である。こんなに重要な問題なのに、と団体関係者は考えているのだが、多くの人がその思いを共有してくれないところに問題があるのだろう。
 もちろん、このような話は、盲人に接したのがこの時初めてだという児島には知るよしもなかったのだが。

 老人は自分がかつて駅のホームから転落したときのことを児島に語った。「ここに階段がある。上れば改札に行ける」と信じて歩いていると、そこがホームの端で、そこから線路に転落してしまったという。彼が歩いていたところは、ほとんど人が行かない場所だった。乗客がそう少なくない時間帯で、おそらく彼が誰もいない方向に向かって歩いていく姿は、多くの人が目撃していると思うのだが、落ちる前に声をかけてくれる人はなかったのだという。彼が落ちたとき、女性の悲鳴が聞こえ、何人かの人が引き上げてくれた。駅員が来たのは、彼がホームに引き上げられた後だった。ホームに駅員がいれば、彼は落ちていなかったかも知れない。しかし何より、誰も声をかけてくれなかったことが、老人は悲しく・悔しかったのだという。
 新幹線に乗ると速く仙台に着くことは老人はもちろん知っていた。ただ、ホームから落ちるのが怖いのだ。彼が落ちたのは一度だけだが、同じような状況で大けがをしたり命を落とした仲間がいるのだという。
「仙台で重要な用事がある。今、命を落とすわけにはいかないんだよ」
 別に重要な用事がなくとも、命を落とすようなことはあってはならない。運転手として人の命の安全ということには特別気を遣っているし、そういった教育を受けてきた児島にとっては、驚きを禁じ得なかったのだ。障害のない人が普通のことのようにしている鉄道の利用が、目の見えない人にとってはこうも危険で恐怖なのかということを感じていた。

 首都高速を抜け、東北自動車道に入った。埼玉県から栃木県へ。サービスエリアで休憩を取ることにした。車を停めて、老人の手を引いてトイレに向かう。
「何か、食べるものか飲むものか、買いますか?」
と児島が聞いたときだった。この老人が、実はお金を持っていないということが分かった。児島は信じられなかったのだが、
「お客さん、タクシー代、払えないっていうんじゃないだろうね」
と聞くと、
「大丈夫だ。仙台に娘がいる。娘が払うから」
という。
「仙台には、娘さんが住んでるのかい?」
「そう。今日は娘に会うために仙台に行くんだ」
「かなり高くなると思うけど、ちゃんと払ってくれますよね」
と疑い深く聞いてみた。
「ああ、大丈夫さ。タクシーで行くのは娘も知ってる」
(本当かよ)
 内心疑っていたのだが、とりあえず口には出さなかった。そう貧乏人にも見えない。それに、娘の嫁ぎ先は仙台市内の資産家のご子息様で、数年前に死別してはいたが、その資産を娘が相続しているのだ、という。もちろん、それが本当であるという保証はないのだが、この老人が嘘をついている様子はない。いや、客の言うことは疑わない、ということをいつも心がけていたから、そう思えたのかも知れないが。

 仙台に着いたときには、辺りはもう暗くなっていた。仙台駅からの道順は老人もはっきり覚えていないし、仮に住所を言われたとしても児島にはまったく土地勘がなくて分からない。とくに仙台の街は複雑にできているから、老人が娘に電話をかけることになった。児島は老人を公衆電話まで案内した。財布に何も入っていない老人のため、児島は十円玉を何枚か貸すことにした。もちろん、後で娘さんから返してもらえばいい、と思っていたが。
 しかし、電話の向こうから聞こえてくるのは
「この電話はただいま使われておりません」
というものだった。電話番号の間違いだと思って、何度かかけ直してみたが、やはり結果は同じだった。仕方なく、老人のおぼろげな記憶を頼りに、言われた場所を探してはみたものの、家は見つからなかった。近くの交番に聞いてみたが、
「せめて住所がはっきりしてればねぇ」
と、当たり前のように言われるだけだった。
 結局、児島はその家を見つけるのを諦めることにした。
 老人はしょんぼりとしていた。
「どうしますか?」
との問いかけにも、応答がなかった。
「どうする気ですか」
と、やや強い口調で聞いてみたが、老人自身が戸惑っている様子だった。
(おいおい、お前が困るなよ。俺はどうなるんだよ)
 児島はそう思っていたが、言葉が出なかった。
 会社の無線に、老人が金を持っていなかったこと、払うといった娘の住み処が分からず、仙台をさまよっていることを伝えた。無線の向こうでは怒る上司。怒られても、自分はどうすればいいのだ、と児島自身が困惑していた。
 結局、東京に引き返そうということになった。
「東京に戻り次第、その客は警察に突き出せ」
 これが上司からの指示だった。

「お父さん、麗奈がひどい目に遭ってるの」
 裕子から電話があったのは半年ぶりだった。妊娠が発覚したことで、それまで交際を反対し続けていた裕子たちを押し切って結婚した麗奈。裕子は今でも麗奈を東京の大学に入れたことを悔いている。勉強はできる方だった麗奈は、大学はぜひとも東京で、という強い希望をもっていた。厳格な父和幸の監視を嫌って出て行きたかったというのがいちばんの理由だと思うのだが、この、親から自由になりたいという麗奈の思いは、婿を取って会社を継がせたいと目論んでいた和幸にとっては認めがたいものだった。和幸を説得したのは裕子だった。
「大学を卒業したら、ちゃんと仙台に返ってくるっていう約束で、許してあげたら?」
 結局、これが決めてとなった。麗奈はこの条件を受け入れて、東京の大学に入学。一人暮らしをはじめた。親は資産家だから、生活には苦労しなかった。アルバイトなどをしていて学業に差し支えては、と心配した和幸と裕子は、毎月多くの仕送りをしていた。しかし、これは結果として裏目に出たのだったが、そんなことを彼らが知ったときにはもう遅かった。
 大学に通っていたのは最初の一月ほどで、新歓コンパでその楽しさを覚えた麗奈は、いわゆる合コンサークルで多くの時間を過ごすことになる。それまで資産家の令嬢として育てられてきた麗奈にとって、そこでの出会いは何もかもが新鮮だった。なかでも、フリーターの悟には、麗奈も心引かれることとなった。フリーターといっても、真面目にアルバイトをこなしている人もいるが、悟はそうではなかった。次から次へと職を変え、それもほとんどクビにされるのだった。遅刻や欠席が茶飯事で、雇う側からすると使い物にならない、というのだ。
 しかし悟は、麗奈にとっては自分が今までもっていた価値観とは違うものをもっているという、何とも言えない不思議な魅力をもち合わせていた。やがて恋に落ち、交際が始まる。麗奈は自分たちの交際のことは親には内緒にしておくことにした。もちろん、親に知れると反対されることが容易に予想できたからだ。ただ、いつまでも隠し通せるものでもなかった。
 それは麗奈が四回生の時のことだった。和幸の会社に就職することは前から決まっていた麗奈は就職活動はしていない。その事は大学に入る前からの約束だったからだ。ただ、麗奈が卒業できないということだけは、両親には隠し通せなかった。成績不振で単位が揃わないため、留年ということが決まった。これまで、「大学の勉強、がんばってるよ」と言い続けていた麗奈も、それら全てが嘘であることを認めざるを得なくなったのだ。
 和幸と裕子が東京に来た。そこで初めて、二人の交際を知ることとなる。和幸は悟に会いたいと申し出、結局四人で会うことになったが、悟の(いつものような)無礼な振る舞いに和幸は呆れ果てた。
「どうして、あんな訳の分からない男に・・・」
 悟と別れた後、和幸はため息混じりに呟いた。
「とにかく、あんな男とはすぐに別れなさい」
 和幸はそう言い残して、仙台に帰った。そしてこれが、和幸と麗奈との永久の別れとなった。

 タクシーは夜中の東北自動車道を南へと向かった。老人は無口だった。児島も、もう疲れ切っていた。所々で車を停めては、仮眠を取りながら、ゆっくりと東京に向かう。もう、とっくに会社に戻って、車の清掃をし、家に帰って寝ている時間だ。
(まったく、この爺さんのせいでとんでもない一日になっちまった)
 児島はそんな思いでいっぱいだった。しかし、なぜこの老人がタクシーで仙台に向かったのか、そして仙台で何をしようとしていたのか、娘に何の用事があったのかは、未だに謎だった。確かに老人は「重要な用事」と言っていた。もちろん、本当に重要な用事なのかどうかも分からないのだが、ただ、何の目的もなくこのタクシーに乗り込んだとは考えがたかった。
「いま、どこですか?」
 会社の無線が聞いてくる。だいたいの居場所を伝える。「ゆっくり、焦らず、気をつけて帰っておいで」等という優しい言葉一つかけてくれたらどれだけ嬉しいだろうにと思う。しかし、そんなことは言ってくれない。早く帰ってこい、といったことを言う。児島と同じように、夜道を急ぐトラックが高速道路を突っ走る。とりわけ対向車線、東京から北に向かう車はそうだ。どれくらいのスピードが出ているのかは分からないが、制限速度を大幅に超過していることだけは確かだ。運送業界では、出発の時間は少しでも遅く、という需要があるのと同時に、少しでも朝早く受け取りたい、という要求があって、板挟み状態だという。不眠不休で突っ走れ、といったことが言われている。そうした業務に携わる人たちは、決してよい雇用条件ではない。スピード違反で検挙され、支払う罰金の方が日当よりも上回っているといったことが一部で知られている。しかし、荷物を出す多くの人たちはそうした事情を知らない。少しでも安く、少しでも速くといったことだけを見て、企業間の競争を煽っている。
 老人は児島のタクシーに無賃乗車をした。しかも上野から仙台までという長距離だ。事情がどうあれ、この事実は変わりない。しかし、不思議と児島はこの老人を憎む気にはならなかった。この老人が盲人だから、それを哀れんでのことなのか。そしてもしそうであるとすれば、それは障害者に対する差別なのではないか。あるいは、また別のところに理由があるのだろうか。だとすれば、それは何なのか。

 バブルがはじけて以来、和幸の会社はふるわなかった。親から受け継いだ資産で、なんとか食いつないでいたという感じだ。ただ、大手企業との取引が成立するや、仕事が軌道に乗り始めた。社長の和幸は休む暇もないほど多忙を極めていた。「今しかない。このチャンスを逃すわけにはいかないんだ」と、疲れたときはいつも自分に言い聞かせて働き続けていたのだった。
 そんなある日、麗奈が妊娠したとの情報がもたらされた。電話を受けたのは裕子だった。裕子は麗奈の話を冷静になって聴くことなどできなかった。
「赤ちゃんが、できちゃったの。悟さんとの間に」
 裕子は和幸にこの話を伝えないわけにはいかなかった。その日、和幸の帰りを待って伝えようとしたが、和幸が帰宅したのは日付が変わってからだった。
「ただいま。まだ起きてたのか。俺は疲れた。朝早いし、寝る」
 和幸は玄関でそう告げるなり、寝室に向かった。裕子は和幸をゆっくり休ませてあげたいという気持ちもあったのだが、寝室まで追いかけていき、麗奈からの電話のことを告げた。
 予想通り、血相を変えた和幸は、
「な、なんだと! そんなことが許されるとでも思っているのか」
といったことを叫ぶでも怒鳴るでもなく言い、
「明日、朝一で東京に行く」
と告げた。
 そしておそらく、この夜は和幸も裕子も、一睡もできなかったのではないだろうか。
 翌朝、和幸は会社の重要な会議に関する資料とメモを裕子に手渡し、それを会社の誰それに届けるよう指示した後、東京に向けて旅立った。「もう一度、娘とゆっくり話がしたい」と思っての東京行きだった。

 和幸に言われた務めを果たし、帰宅した裕子の心中は複雑だった。いったい、この先どうなるのだろうか。あれだけ毛嫌いしていた悟の子が麗奈のお腹の中にいる。この事実を、自分はどう受け止めればよいのか。そして、おそらく今ごろ東京で麗奈と会っているであろう和幸は、どう受け止めようとしているのだろうか。
 電話が鳴った。和幸か麗奈からだろうと思ったが、違っていた。埼玉の病院からだった。
 仙台から東京に向かう新幹線の中で、和幸が倒れ、大宮駅から近くの病院に運ばれた、とのことだった。
 裕子は慌てて和幸が運ばれたという大宮の病院に向かったが、和幸と会うことは二度となかった。「昨夜、せめて昨日の夜だけでも、ゆっくり寝させてあげるべきだった」と、悔やんでも悔やみきれなかった。
 葬儀に訪れた麗奈の横には、悟がいた。それを見て、裕子は心穏やかではいられなかったが、式の始まる前、
「私も、お父さんの告別式に出させてもらってもいいでしょうか」
と、低調に挨拶してきたり、前とうってかわって、きっちりと喪服を着こなしてきたことなどもあって、その後、裕子は態度を軟化させる。
 和幸の喪が明けた頃、裕子は二人の結婚を認めることを決断した。悟は東京で仕事を見つけてまじめに働くと約束し、結婚式は行わずに入籍だけとし、出産や育児にかかる費用は裕子が援助する、ということになった。

 タクシーは都内に戻ってきた。
「とりあえず、都内に戻ってきましたが・・・」
 児島は老人に言った。
「警察へ」
と、老人は小さな声で言った。
「警察、ですか。いやね、会社の無線ではそう言われていますが、ぼくはね、その」
「いや、警察へ」
 老人は再びそう言った。
「警察行って、どうされるおつもりですか? 別に私はタクシー代さえ払ってくれれば、あなたを警察に突き出す気はない。目的地に行こうとしたけどUターンなんて、あり得ない話じゃないですからね」
 児島は、「僕は悪者じゃない」とでもいうような弁解めいた言い方でそう言った。
「警察へ」
 しかし、老人は同じことを呟いている。普通は、警察に突き出されるのは嫌なはずだ。無賃乗車はれっきとした犯罪だからだ。となると、あるいは、老人がそこまでのリスクを負ってでも警察に行くメリットが何かあるというのか。刑務所に入りたいと願っている人は時々いるが、無賃乗車程度で入れてくれる刑務所はないだろう。警官にこっぴどく説教されて、罰金刑か、あるいは起訴猶予といったところが関の山だ。それに、警察に突き出せと言っている会社側も、タクシー代さえ回収できれば、この老人にそれ以上文句を言う理由はない。だが、老人は警察へ連れて行けと言い張っている。
 タクシーは、夜明け前の東京を警察に向かって走り始めた。

 結婚後、しばらくは穏やかな日々が続いた。悟もまじめに仕事に行っていたし、麗奈も育児と家事をこなす毎日だった。ただ、悟はまじめになったとは言え、仕事ができる方ではなかった。この事が裏目に出るのは、結婚してから3年が過ぎようとしていた頃だった。悟の会社も不景気の煽りを受けて大規模なリストラに踏み切った。そして、仕事ができる方ではなかった悟も、その対象になってしまったのだ。会社からリストラの話が持ち上がったとき、はじめは何とか対象から逃れようとしていたのだが、次第に、従前の悟に戻ってしまった。しまいには、「こんな会社、こっちから辞めてやるよ」と言ってしまった。
「麗奈、翔太は保育園にでも預けて、お前も働けよ」
 これまで専業主婦だった麗奈は、悟の失業により、悟の給料+実家からの仕送り、という暮らしに行き詰まり、翔太を保育園に預けて働きに出ようと思うようになる。しかし、保育園が不足している現状では、なかなか預かってくれる保育園が見つからない。それで、とりあえず悟が昼間翔太の面倒を見て、麗奈は働きに出ることになった。麗奈の希望の仕事はなかなか見つからなかったのだが、そんな贅沢は言っていられない。
 しばらくそういう生活が続いたある日、近所の主婦からとんでもない噂を耳にしたのだった。悟が翔太と毎日近所のゲームセンターに行き、翔太に金を渡すと、悟はパチンコに興じている、というのだ。それを偶然見つけた近所の主婦が、麗奈に報告したのだった。麗奈が必死になって稼いだ金、実家に頼み込んで、少し多めに援助してもらっている金を、悟は遊興費に使っている。麗奈は早速悟に問い詰めることにした。
 悟はあっさりとその事を認めた。
「翔太も楽しそうにしているし、いいじゃないか。俺だって、儲かった金を家計に入れるためにパチンコしてるんだから」
 悟は、こうして開き直ったのだった。麗奈は怒りが抑えきれなかった。実際、悟がパチンコで儲けてきたことなどない。たまに勝っても、ほとんど負けていて、差し引きは大幅なマイナスだった。そして、後に分かることだが、麗奈の実家に資産があることをよいことに、町金から軽々しく借金をしていた。翔太のゲームセンターでのお金も、そこから出されていたのだった。悟が、「パチンコで勝ったから」というのは、ほとんどは町金で借りた金だった。
 やがて、町金の取り立てが家に来るようになった。悟は、別の町金から借りてとりあえず難を逃れる、というやり方をしていたが、そんなことはやがて通用しなくなる。仕方なく麗奈が実家に頼み込み、町金の取り立てから逃れる日々が始まった。幾度と回を重ねるごとに不安になった裕子は、
「お金は何とかするけど、こういうことが続くのはねぇ」
と、苦言を呈したのだが、麗奈がそれを理解しても、悟には通じなかった。
 ちょうどそのころからだろう。悟の酒を飲む量が増えた。酒を飲んでは家で暴れるようになった。最初はニュース番組を見て世間の悪口を言う程度だったが、次第に麗奈に罵声を浴びせるようになり、やがて、手を挙げるに発展した。
「金をくれよ、金」
といったことを言っては、麗奈がそれを拒むと叫び散らし、暴力をふるうようになった。麗奈は、そのうち収まる、きっと元の悟に戻ると信じていたが、その暴力はますますエスカレートしていったのだ。麗奈に対する暴力は、やがて翔太にも及ぶようになった。麗奈を中傷するような噂を近所にばらまいたり、麗奈の職場に嫌がらせのファックスを送ったりするようになった。
 麗奈は近所の交番に相談してみた。しかし、
「家庭内のことは警察は関与できんのですよ。家ん中でどうにかしてください」
と、まったく取り合ってくれなかった。そんな間も、悟の暴力はますますエスカレートしていったのだった。
 麗奈はたまりかねて裕子に相談した。できることなら、こういうことはしたくなかった。なにせ、親の反対を押し切っての結婚だったからだ。これ以上、親に心配をかけたくはなかった。
 麗奈の話を一通り聞いた裕子は、
「とりあえず、うちに来なさい」
と言った。
 和幸の死後、その資産は裕子が受け継いでいた。会社の意志決定には関わっていなかったのだが、裕子の社内での影響力は相当なものだった。当然、自宅には和幸の代からの警備が施されていた。ここなら何かあっても安心だろうと裕子は考えていたのだった。
 翌る日、麗奈は翔太と公園に行くと告げて家を出、そのまま仙台に向かった。
 悟は麗奈たちの帰りを待っていたが、暗くなっても帰ってこないので不審に思い、公園に出向いた。が、そこには誰もいない。悟は、一旦家に戻ったが、しばらくして、また探し始めた。しかし、その夜は麗奈たちは帰ってこなかった。
 翌朝、悟は麗奈の職場に電話をしたが、
「奥さんなら、先日辞められましたけど」
という返答だった。それを聞いた悟は、近所の家や麗奈の友達のところなど、麗奈が行きそうなところを探し回ったが、見つからなかった。

 仙台に着いた麗奈たちを、裕子は迎え入れた。
「しばらく、ここでゆっくりしていきなさい」
と、裕子は、疲れ切り今にも倒れそうな麗奈に言った。
 ここなら安心して過ごせる。麗奈はそう期待した。悟が収まるまで、しばらくここにいようと考えた。

 あちこち探し回ったが麗奈たちを見つけることができなかった悟は、もしや仙台の実家に逃げたのでは、との疑念を抱くようになった。悟は、裕子に電話をかけた。
「すみません、そちらに麗奈たちは行っていないでしょうか?」
 ここで「はい、来ております」などと答えるほど、裕子は馬鹿ではない。
「えっ、何ですって?」
 あえて驚いたように振る舞う。
「昨日から帰らないので、もしかしてそちらかと思いましてね」
「帰らない? どういうことですの?」
 裕子はとぼけて見せた。
 そうか、いないのか、と、悟は引きさがろうとした。もちろん、仮に来ていても、それを隠している可能性はあるのだが、しかし、それ以上追求することもできない。だが、その時だった。電話の向こうから、
「おばあちゃん」
と呼ぶ翔太の声が聞こえたのだった。
「では」
と、慌てて電話を切ろうとした裕子だったが、間に合わなかった。
「今、翔太の声がしたように思いますが・・・」
 「ばれた」と裕子は思った。
「やっぱり、そちらにいるんですね。麗奈と翔太は」
 悟の問いかけに、裕子は答えなかった。
「どうして私に嘘をつくんですか? どうして?」
 だんだんとトーンを上げてくる悟の声。言葉遣いが、徐々に荒っぽく、そして早口になってきた。裕子は、それから何を言われたのか覚えていないが、始めの落ち着いた感じが嘘のように、悟は荒れていた。
「今から行きますから」
と、最後に言ったのだけは裕子も覚えている。
 裕子はすぐに麗奈を呼び、悟が追ってくることを告げた。仮に悟がこの家に来ても、裕子は断じて中に入れない覚悟だった。家は高い塀に囲まれ、セキュリティのレベルも高いので、悟が中に侵入してくることはまず不可能である。そういう意味で、ここにいることは安心だった。ただ、そうした場合、ずっと家の中に閉じこもっていないといけない。あるいは、悟が何をしでかすか分からないという不安があった。
 しばらく悩んだ末、麗奈は別の場所に避難することにした。といっても、行くあてはない。大学時代の友人を頼ろうかとも思ったが、それなら悟もたいてい知っているし、いつ追いつかれるか分からない。高校まで地元にいたから、その友達なら地元にいるが、最近連絡も取っていないし、いきなりは行けない。他に、頼れるほどの人もいない。しかし、ぐずぐずもしていられない。
 裕子は、麗奈を逃がすために会社の車を家の前に着けさせた。急いでこちらに向かう悟は、おそらく仙台駅に来るだろう。麗奈たちは、車に乗ると、一路北に向かった。

 警察に着くと、児島は老人を伴って車から降りた。会社からの指示であり、また、老人自身が望んだことでもあるのだが、児島は気が進まなかった。
「どうしました?」
と、対応に当たった藤本刑事が聞いた。しかし、老人は口を閉ざしていた。
「実はですね、この人が私のタクシーに無賃乗車をしまして・・・」
 児島の一声で沈黙は破られた。
「無賃乗車ですか」
「ええ。それでね、もう半日以上も走ってるんですよ」
「えっ? 半日以上ですって?」
「はい。昨日の昼頃、上野駅近くで乗ってこられたのですが、仙台まで行けって言うんで、それで仙台まで行ったんですよ。途中でお金もってないことが分かったんですが、仙台で娘が払うから大丈夫だ、って」
 藤本は驚いた顔をして聞いていた。
「ところが、仙台に着いて、言われた場所に行ってはみたのですが、いくら探しても娘さんの家は見つからないんですよ。住所もきっちり分からないし、近くの交番で聞いても分からなくて、仕方なく戻ってきたってわけです」
「あなたのお住まい、どちらですか?」
 そこまで聞いた藤本は、老人に尋ねた。老人は黙ってうつむいたままだった。
「ねぇ、あなたが連れて行けって言うから警察来たんですよ。刑事さんにちゃんと話してくださいよ」
 児島は老人に向かってそう言った。
「お爺さん、お名前は?」
 しばらくの沈黙の後、藤本が尋ねた。

 車は東北自動車道をまっすぐ北に向かった。仙台から盛岡まで、東北自動車道・東北新幹線・東北本線がほぼ並行に走る。外を見れば、右も左も広大な田園風景だった。

 麗奈たちが出発してから程なくして、悟が裕子の家にやってきた。玄関のチャイムを鳴らしたが、裕子は出なかった。
「麗奈、翔太、いるんだろ。出てこい!」
 悟は家の前で叫びはじめたのが裕子には聞こえた。早く逃がしてよかったと、少しほっとした。しかし、悟がこれからどういう行動に出るかまったく読めず、その事が不安だった。
 チャイムを何度か鳴らし、麗奈と翔太の名を叫んだ後で、しばらく静かになった。裕子はこれで収まるかという淡い期待を少しはもったのだが、甘かった。今度は電話をかけ始めたのだ。その後、裕子の家は、絶えずドアのチャイムと電話の呼び出し音が鳴り響いていた。
 裕子には、もう相談できる相手がいなかった。こんな時、夫の和幸が生きていたらどうしただろうかと思いをめぐらせてみる。おそらく、「だから反対したんじゃないか」と言うだろう。しかし、名うての知恵者として会社の内外で知られていた彼なら、きっと何らかの妙案を思いついてくれるに違いない。可愛い娘と孫のために。
 たった一人、頼れる人物といえば、面倒をみる人がいないという理由で施設に入っていた、盲目の父、重蔵だった。裕子は受話器を握りしめ、気が付けば重蔵と話す電話口で泣いていた。
 チャイムと電話は、相変わらず鳴り続いていた。

 麗奈と翔太は、いつまでも会社の車を使うわけにもゆかず、花巻で車を降りると、その日は花巻温泉付近に宿を取り、一泊することにした。周りには楽しそうな旅行客。とてもくつろげる気分ではなかったが、しかし、少しでも休まるところを選んだのだった。
 同じ旅館に泊まっていた、親切そうな老夫婦が、麗奈と翔太に声をかけてきた。
「坊や、どこから来たの?」
「・・・家から・・・」
「こら、翔太。すみません。東京です」
「あら、私たちも東京からなんですよ」
 老夫婦は、秋の東北旅行を楽しんでいるとのことだった。老夫婦とはいえ、二人とも非常に元気で、東北旅行は自家用車での旅だという。東京を出、まずは日光で一泊。松島・青葉城を見物して、仙台で一泊。そして今日は、平泉を観光して花巻温泉に来た、という。
 花巻からまっすぐ東京に帰る予定だという老夫婦は、東京に帰るなら一緒に乗っていかないかと麗奈たちを誘ってくれた。行く当てもなく、これからどうしようかと悩んでいた麗奈は、この夫婦の好意に甘えることにした。
 翌朝、四人の乗った車は、東北自動車道を南に向かった。

 夜中、一旦収まっていた悟の攻撃が、朝になりまた始まった。裕子が中にいることは、悟に気づかれているらしい。それがなぜなのか分からないが、ずっと家の近くをうろうろして張り付いているところからしてみれば、その事は間違いない。
 裕子は精神的に疲れてきた。麗奈のことを思うと、たいしたことではないのではないかと思いつつも、自分がこれまで経験してきたどんな苦難よりも増して、苦痛だった。裕子は会社の車を手配すると、裏口から家を出て、車に乗り込んだ。悟に気づかれるかも知れないが、しかし、とにかく、逃げようと考えた。裕子は、仙台空港まで車を走らせると、飛行機で大阪に向かった。

 休み休み走ったため、車が東京に着く頃には、辺りは暗くなっていた。麗奈たちは、老夫婦が住むという浅草の近くで車を降りたが、家に帰る気にはならなかった。もしかして、悟が仙台から戻ってくるかも知れないからだ。
 その日は、上野公園の近くで一泊することにした。夫が何かしてないか、母はどうしているか、いろいろと心配しながら、とにかく休むことにした。

 老人はなかなか口を開こうとしない。児島は、会社に戻ろうかと思ったのだが、やはりこの老人のことが気がかりだった。仕事上というより個人的に、だ。
「保険証とか、何かないんですか?」
と、藤本が老人に尋ねた。しばらく動きのなかった老人は、身体障害者手帳を取り出し、藤本に手渡した。
「沖田重蔵 視覚障害(1級)」
と、手帳には書かれてあった。あとは、住所や生年月日なども書かれてあった。
「施設に入っておられるんですね?」
 手帳を見た藤本が老人に尋ねる。老人は肯いた。藤本はその施設に連絡を取ることにした。
「どうでしたか?」
 戻ってきた藤本に児島は尋ねた。
「確かに、この施設の方でした。昨日、急用で娘に会いに仙台に行くと言って、施設に外泊願いが出されていたそうです。すぐに引き取りに来るとのことでした」
「そうですか。それはよかった。ところで、タクシー代の方は・・・」
「ご心配なく。施設の人にもってくるように伝えました」
 それを聞いて、児島は安心した。元もと預金のある老人、いや沖田のことだ。施設にしても後ですぐに回収できるだろうから問題はない。
「じゃあ、沖田さん。しばらくここで待っていてもらえますか」
と言い残し、藤本は立ち去ろうとした。
「あのぅ、お巡りさん」
 重蔵は重い口を開いたのだった。
「どうか、しましたか?」
「聞いていただきたいことがありまして・・・」

 次の日、麗奈と翔太は昼近くまでゆっくりとしていた。ゆっくりと寝ていたというわけではなく、何処へ行くか決めかねていたのだった。ただ、いつまでもこのホテルにいるわけにもいかないので、昼頃ホテルを出た。上野公園の近くを散歩する二人。とりあえず、電車に乗ってどこかに行くしかないと麗奈は考えた。
 向こうからタクシーが近づいてくるのが見えた。麗奈は手を挙げてタクシーを止め、
「上野駅まで」
と運転手に告げたのだった。

 重蔵は娘から聞いたことを藤本に伝えた。困り果てた娘を何とかしたい、せめて相談に乗ってあげたいと思って、東京から仙台まで行こうと決心したこと。しかし、いざ上野駅に着いてみると、久しぶりに乗る電車に、ホームから落ちないかと不安になって電車に乗るのを諦めたこと。困ってうろうろしていたら、親切な女性が声をかけてくれたこと。タクシーに乗ったが、慌てて出かけたために財布がないことに途中で気づいたことなどを話した。
 児島と藤本は、黙って重蔵の話に耳を傾けていた。

 しばらく後、施設職員の松岡が警察にやってきた。
「沖田さん、娘さんに会いに行くんじゃなかったんですか?」
 松岡は重蔵に近寄って、そう言った。
「どうも、ご迷惑をおかけしました。タクシー代です」
 松岡はそう言いながら、児島にタクシー代を手渡した。
「刑事さん、お願いです。家庭のことだからって、無視しないでください。放置しないでください」
 重蔵は藤本に向かってそう言った。
「さぁ、施設に帰りましょう」
 松岡は重蔵の手を取った。
「運転手さん。本当に申し訳なかった。ややこしいことに巻き込んでしまって。でも、最後まで親切にしてくれてありがとう」
 重蔵は、児島に頭を下げて、松岡とともに施設に帰っていった。
 児島の手にはタクシー代の入った封筒。これで問題はないのか。タクシー代を受け取ったのだから、おそらくないはずなのだが、それでも、何となくやるせない気持ちを抱いたまま、児島も警察をあとにした。


UP:20060831
原稿