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2009/07/01 『「NPO法人弱視の子どもたちに絵本を」設立をめざす会』通信8号 青木 慎太朗(羽衣国際大学非常勤講師) 弱視者と一言でいっても、考え方も生活している環境もぜんぜんちがっている。ただ、そのうち多くの人たちは、見えにくいことを不自由と感じているのではないだろうか。ビミョーに見えているからこそ、周りの人たちより見えていないこと、見えにくいんだということに気づかされることは多いだろう。 だが、「見えにくいこと」と「不便であること」とは、まったく別の話だ。見えにくいことで何がどういうふうに不便なのか、ちょっと具体的に考えてみよう。本が読めない、信号が見えない、走ってくる自転車が見えなくてこわい… そう、数え上げればキリがない。だけど、どうして見えにくい人は本が読めないんだろう? どうして信号が見えないんだろう? どうして走ってくる自転車におびえなきゃいけないんだろう? 見えにくくてもがんばれよ、なんてことを言う人たちがいる。でも、本が読めないのは誰のせい? 信号が見えないのは誰のせい? 走ってくる自転車が見えないのは誰のせい? 見えない人が悪いのかしら? 見えない人たちががんばって努力して、乗り越えなきゃいけないのかしら? 拡大本や録音図書があれば、見えなくたって本を読むことはできる。音声信号があれば青信号を安心して渡れる。白い杖をもった人が歩いている歩道を猛スピードで走り抜ける自転車の方が危険なんじゃないかな? 人間は見えていて当たり前で、見えにくい人たちがおかしいんだと思うから、その人たちにがんばってもらおうって考えてしまうけれど、見えにくい人たちが不便な思いをしないでも暮らせる世の中だったら、とくに「がんばれ」といわれなくていいはずだ。今の世の中は、見えにくい人が不便な思いをするようにできてしまっているから、見えにくくて不便なのは当たり前なんだ。見えにくい人は見えている人よりできないことが多い。これも当たり前なんだ。 できないことを数え上げたってどうしようもない。考えれば考えるだけ、しんどくなるだけだ。人間がいくら努力したって、チーターより早く走れない。だけど人間は、それでくよくよしているか? 「でけへんからでけへんねん!それでええやんか」と、堂々と言ってみよう。そして、じゃあ自分たちは何ができるだろうか、これから何をやっていこうか、と、将来を考えてみよう。そこにはたぶん、これまでと違う未来が映るはずだ。 UP:20090901 ◇原稿 |