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つらい、しんどい、うっとうしい… でも、どうして?

2009/09/01 『「NPO法人弱視の子どもたちに絵本を」設立をめざす会』通信9号
青木 慎太朗(羽衣国際大学非常勤講師)


(承前)
 みんながみんな、というわけではないだろうが、障害があることが、見えにくいということが、つらいとか、しんどいとか、うっとうしいとか…と思ってしまうことがある。しかし、見えにくいということと、つらい、しんどい、うっとうしい…こととは、まったく別のことだ。そこには本来、つながりはない。
 とはいえ、実際には、これらがつながってしまっていることがある。どうしてだろう? 考えてみよう。
 本が読めない、信号が見えない、など、見えにくいことによって何かができないとか、やろうと思えばできるが時間がかかるとか、すごくしんどいということがある。たとえば私は文庫本や新聞を読み始めると、すぐに目がつかれて嫌になってしまう。見えにくいからつらいんだと思うかも知れないが、ちょっと待った!
 本を読むのに、目で読まなければならない決まりはない。録音図書で、耳から読書をすることだってできる。そうすると、目はつかれない。集中力の続く限り、読書が続けられる。
 もしも、本を読む時に自分が見えにくいことをうっとうしく思うなら、そのうっとうしさの原因は自分の目ではなくて、目で読むことしか考えないでつくられた本の側にあるのではなかろうか? うっとうしさの犯人は、自分の見えにくい目ではなく、「本は目で読むもの」という、誰が決めたか分からないルール?の側にある。
 見えにくい人たちは、こうしたルールに従う必要はない。だが、このやり方が当たり前なんだと思って従ってしまうことがある。なぜだろう? その理由の一つは、自分も周りも、今あるルールを疑うことを知らないからだ。見えにくい自分が悪いのではなく、見えにくい自分が使えないようなものをつくって、しんどくてもがんばってそれを使えと要求してくる奴らが悪い。家族や先生たちも、そんなことを求めてくるから、余計に疑えない。そして自分自身も、「こんなもんか、しんどくても(自分が)我慢するしかないんか」と、信じ込まされてしまっているのではないだろうか。
 自分に不利なルールが押しつけられているなら、そのルールを変えてしまえばいい。このルールはおかしいんだと、いっていくことは、何も間違っていない。
 もし今、自分が見えにくいことを、「つらい、しんどい、うっとうしい…」と感じているなら、それがなぜなのか考えてみよう。そうすると、自分自身がそう思っていることそれ自体が、つらさ、しんどさ、うっとうしさの原因になっているかも知れないよ。


UP:20100112
原稿