>HOME 講演会資料/発表レジュメ など 人権を考えるセミナー(綾部市教育委員会) 「心のバリア」はどこにいるのか?
2005/10/07 於:物部公民館【物部営農指導センター】 青木 慎太朗((独)メディア教育開発センター / 立命館大学) *「心のバリアをなくそう 〜 障害者に一声を 〜」というタイトルで依頼された講演に、自分で付けたタイトルおよび考えた原稿が以下。話す予定だったメモであり、話した内容とは若干異なる。 ■そう簡単でないこと 「心のバリアをなくそう」というテーマで話せと言われたので、おそらくそういう話をしないとまずいのだろうとは思う。そして、ある種のスローガンとしてそういったものを掲げようという動きがあること自体、否定するものではない。ただ、単純に「心のバリアをなくしましょう」と言われて、「ああそうですね」では終わらない、終われない何かがある。その事について、触れておきたい。 おそらく、私の仕事はそうしたやっかいな事柄をいろいろと「ああでもない、こうでもない」と考え、そこから得られたことを人に伝えることだろうと思っている。あるいは、そうすることによって、そこで扱われる問題について、いろいろと考えていただきたい。その材料を微力ではあるが、提供できればと考えている。 「心のバリア」というものが持ち出されるのは、例えば建物にエレベーターが着いたり、歩道と車道との段差がなくなったりして、バリアフリーになりつつあるけれども、人々の心の中にバリアがあっては、本当のバリアフリー社会は実現できないだろう、といったところだ。言われてみればその通りのような気もするし、なにせ、もっともらしい。また、そういった点で多くの人々から理解が得られやすい、というか、納得してもらいやすいから、戦略的にあえて「心のバリアフリー」を言うことも、ありかも知れない。 しかし、そうすることで見えなくなる、あるいは、見えなくさせられる事柄があるということについて、考えておく必要はあると思われる。 まず、「心のバリアはどこにいるのか?」との問いかけである。バリアフリーで言われるバリアは、段差などといった形で具体的に存在するから、バリアがあるということは理解できるだろうが、心のバリアはどこに存在するのか、ということである。人々の心の中にバリアがあるとするなら、その存在はどのようにして導き出されるのか。そういった、あるか/ないか分からない曖昧なものを取り出して議論することの難しさが一つにはある。「心のバリアをなくしましょう」と言われて、その時は分かった気になってしまうが、それが何なのか実際はほとんど何も分かっていない、ということが言える。 次に、障害者が社会で受けている、もしくは受けざるを得ないことにされている不利益、差別、抑圧といったものについて、この「心のバリア」はどう関与するか、という問題である。「心のバリア」を語ることで、そうした、ある意味、目を背けたくなるような問題から目をそらせ、「心のバリアをなくして、お互いに仲良くしていきましょう」といったことに結びつきはしないか、ということである。そこでは、先に挙げたような問題――すなわち、障害者への差別や抑圧――は見えなくされてしまう。明るいところだけを見て、そうでないところは見ない、というのは、おそらく乙武ブーム以来の障害者問題における語られ方の潮流であり、この点は危惧しておく必要がある。彼はさわやかさを売りにしていたあまり、例えば、重度障害者の性といった、深刻に議論されるべき問題を忘却させてしまった。 少なくとも、人権問題として障害者の問題を考えるなら、道ばたで声をかけるといった小さな親切が重要であるといったことを論ずると同時に、雇用や教育といった面での社会保障の問題など、「心のバリアフリー」といったキャンペーンでは不十分なことがあるということを、語っておかなければいけないだろう。 ■多様性について 以上のような話を前置きとしつつ、次に多様性の話しに移りたい。人権問題を語るなら、多様性を認めましょう、ということは――多くの場合は――肯定される。私は障害のある学生の支援といったことを研究テーマとして取り組んでいるが、障害者の支援という文脈と、より広く多様な学生の支援という文脈で語られることがあり、障害者にだけ言える特殊な問題以外は、後者に乗ってもよいと考えている。 多様な学生の支援といえば、例えば留学生に対する支援などが上げられる。あるいは、いわゆる一条校を出ていない在日外国人の学生の受け入れといったことも論点になるだろう。そして障害のある学生についても。そこには、多様なニーズがある。そして・・・ 多文化主義といったことがもてはやされている。ある意味これも多様性尊重の流れの中にある。異なる文化を尊重し合うことはよいことだ、といったことが言われている。ただ、多文化主義はそれだけでは終わらない。多文化であることは、多言語であるということでもある。とするなら、そこにコストが発生する。 多様性を認めようということは、翻って多様なニーズを認めましょう、ということでもあり、そのためには、多様なニーズに対応するために必要となるコストの問題が起こってくる。そして、そのコストを誰が負担するか、ということになると、多様性を認めましょう、といった単純な話では終わらない/終われないことになる。 ■平等という曖昧さについて 「平等」や「公平」というキーワードが散見されるが、多くの場合、その使い方は「乱用」とでもいいうる可能性を秘めたものである。少なくとも、これらの用語が単独で用いられる際には、とくに注意を要する。 極論の域を出るものではなかろうが、ひどい話が、不作為の平等も考えられる。障害学生であるか否かを問わず、支援を行わない。等しい授業料に対して等しいサービスを提供する、それにとどめる、といった平等も――理屈の上では――考えられなくはない。あるいは、つい最近まで、そういった営みが大勢を占めてもいた。 障害学生支援の重要性を主張する際、おそらく意図的にであろうが(あるいは、そうであると信じたいが)、同じ学費に対して特別な支援を求めるのは平等ではないのではないか、との疑問・反論を受けることがある。これにどう応えるか。「平等」という概念のもつ曖昧さゆえに起こる問題である。 ■配慮の平等 私は、講師として招かれた講演会で、以下の質問をすることにしている(だからここでもする)。「大学の大教室の講義で、教員がマイクを使うのはなぜか?」この問いに対して即答できない人に未だかつて出会ったためしがない。「後の方に座っている人に授業が聞こえないから」というのが、とりあえずの解答である。そして、何を今更当たり前のことを聞くのか、という反応を一様に示す。 次に、また別の質問をする。「では、その教室に耳の聞こえない学生がいたとして、このままで十分でしょうか?」といった感じだ。先ほど、「とりあえずの解答」と述べたが、正確には、「受講生みんなに授業の内容を伝えるため」というのを模範解答にしておくべきだろうか。 「配慮の平等」という考え方がある。通常私たちは「配慮を必要としない多くの人々」と「配慮を必要とする少数の人々」がいる、と考えがちだが、そのように考えるのではなく、「すでに配慮されている人々」と「いまだ配慮されていない人々」がいる、と考える、ということである。教員が教室でマイクを使用することは「配慮」ではなく、当然やるべき事であると考えられているが、そうではない。前に座っている学生には、地声で伝わる。しかし、後の方にいる学生に対して、授業の内容が伝わるように配慮し、マイクを使用したのである。そこで例えば、ろう者が受講しているにもかかわらず手話通訳者を派遣しない、ノートテイクやパソコン通訳を必要とする学生が受講しているのに、これらを付けない、というのは、「配慮の平等」に反する。少なくとも、大学の授業は演奏会ではないのだから、聴力に訴えることに意義があるのではなく、内容を学生に伝えることにこそ意義があるのだから、こうした配慮を平等に行うことは支持される。翻って、配慮を平等になさない、平等に学生を扱わない、ということは、すなわち障害を理由として学生を差別している、ということが言えるだろう。 こういった事を、大学側も意識しておくべきであると思われる。あるいは、決して大学に限ったことではない。市民講座であっても、誰にでも広く公開している以上、聞こえない人が来たときのことは考えたおくべきである。なかんずく、人権を銘打つ講座くらい、最低でもその程度のことはやっておいてもらいたい。 そこには、先ほど話した費用負担の問題が出てくる。それについて、さまざまな議論が可能であろうが、さしあたり、福祉国家的にいうなら、そういったものは公的に保障されるべきである、ということになるだろう。この議論だけで相当時間を使ってしまうから、ここではこれ以上触れない。 ■障害について 次に、障害は不便で不幸なものか、という問いを考えてみたい。お手元にコピーを配布しているが、これは『福祉のひろば』という雑誌に載せた私の記事だ。 従来の――そして今日でもなお力をもっている――医療モデルでは、障害は治療の対象であったり、あるいは治療できなくても、もしそういう技術が将来開発されたなら治すべきものとして考えられている。これは、「障害はない方がよい」との考えによっているが、果たしてそうなのか、ということである。 「障害は不便だが不幸ではない」といったことが言われたりする。これは乙武氏が書いていたが、彼のオリジナルではない。ヘレンケラーが言ったことだ。しかし、障害は不便であり、不便故に起こる不幸があったりする。あるいは、障害という――ある意味邪魔だとされている――ものを伴って生きることは、それ自体が不幸だったりする。しかし、それは、その原稿の冒頭にも書いた通り、この社会が障害があるよりない方が暮らしやすいようにできているからであると考えることができるだろう。もし、障害があっても不便でない社会であるならば、障害者として生きることは不幸でもない。見えなくなったり、聞こえなくなったりすることは不幸ではない(不便でもない)。 いま、人の幸福といったことを他人が定義することが実際には起こっている。少しでも見えた方が良いから、あるけた方が良いからと、治療に精を出す人たちがいたりする。医者はそういう人を励ますのだが、そしてそういう生き方もまた一つの選択であるということを認めつつも、やはりそうでない生き方というものがあってもよいと思う。そうでない限り、障害は不便であり続け、時として不幸につながるという構図からは解放されない。 ■とりあえずのまとめ・1 ここで話せたことはごくわずかでしかない。しかし、障害者と人権といったテーマについて関心があり、あるいは、偶然にもここに来てしまったという方のために、少しでも違った視点から考えていただくための契機を提供できたのではないかと思う。分かりにくく、あるいは不十分な点は多々あるだろうが、小難しい議論はこれくらいでやめようと思う。 「心のバリアをなくしましょう」ということは、非常に単純そうに見えて、実に曖昧で分からないということ。分かった気になってしまい、他の問題を見落としてしまうということ。そして障害というものをどう捉えるかということ。それに付随して、平等やそのための負担をどうするかという問題があるということを、ごくおおざっぱに述べてみた。 ◇ ◇ ◇
■視覚障害者 それでは、ここからは私に関する具体的なことをお話しします。私は、視覚障害者、ということですが、さて、ここでまたみなさんに対して質問です。「視覚障害」とか「視覚障害者」とか聞いて、みなさんは何を思いつきますか? 何でもいいです、適当に手を挙げてください。10人ほど。 A:点字、盲導犬・・・ B:点字ブロック、白い杖・・・ C:拡大レンズ、大きな字・・・ D:上記いずれにも該当しないもの はい、どうもありがとうございます。(出されたキーワードは全て板書する)だいたい、黒板見てもらうと分かりますが、AとBが多いですね(たぶん)。順番に説明していきますが、まず、Aは、点字とか盲導犬とか、つまりまったく見えない人に関係のあるキーワードです。で、Bに行く前に先にCを見てくださいね。これは少しは見えるけれど、かなり見えにくい、いってみれば私みたいな人に関係のあるキーワード、ということになります。それで、飛ばしたBですが、これは見えない人にも見えにくい人にも、両方関係のあるもの、ということになりますね。Dは、ちょっと関係ないかな、と思ったもの、どこにも入れられないもの、という意味です。 みなさんは、やっぱり見えない人に関係あることはけっこう知っているみたいですが、見えにくい人のこととなると、あまり知らないみたいですね。でもね、例えば点字でいうなら、視覚障害者と呼ばれる人の中で、点字が使えるのは、だいたい10人に1人なんですよ。もちろん、だから点字のことはどうでもいい、ということじゃなくて、それは大事なんだけども、それと同時に、見えにくい人のことも大事だよ、ということが言いたかったわけです。 ■一視覚障害者のありふれた風景 まあ、みなさんの中には、私のような視覚障害者の知り合いがいるという人もいるでしょうけど、初めての人が多いと思うので、普段どうやって暮らしているのか、みたいなことをですね、これから簡単にお話しできればと考えています。 今日、私は京都市から電車で来ました。京都駅から電車に乗ったんだけど、あの駅は視覚障害者からは非常に評判が悪いんです。だだっ広いでしょ。それにホームの造りが複雑です。とくに綾部の方に向かう電車は、駅の端の方にあるから、なおさら分かりにくい。まあ、僕はもう慣れたけどね。 で、とりあえずホームに着いた、と。電車が止まっているわけです。僕は少し見えてますから、電車がいるのは分かります。問題があるんですね。この電車、どこに行くの?というやつです。行き先の表示が見えないんですよ。あと、快速電車か普通電車か、といったことも。さすがに特急は分かるけどね。それでね、視覚障害者にとって駅のホームっていうのは非常に危険な場所なんです。とくにまったく見えない人は、駅ホームから転落して亡くなられることもあります。私の知っている人は、ホームから落ちて大けがしました。もうちょっとで死ぬとこだった、って言ってました。京都の地下鉄東西線はご存じですか? 電車とホームの間にドアがありますね。ホームドアっていうんですが、あれがあると落ちないですよね。ああいうのが、増えてくれるといいなと思っています。 さて、今日私は特急で来ました。特急には、指定席と自由席がありますね。僕は自由席に乗りました。まあ、座れたらいいや、っていうのと、お金も安いっていうのと、いろいろ理由はありますけど、何より、指定席は面倒なんです。座席番号通りに座らないといけませんよね、当たり前だけど。でも、座席番号が見えない、というわけです。自由席だと、人がいるかいないかくらい見えます。それに、京都駅は始発駅ですね。並んで乗って、もし自分が一番前なら、座りたい場所に座ればいい。その車両が自由席か指定席か分からなくても、探す時間はある。途中の駅なら、停車時間短いから、探す時間はないですね。だから、いろんな意味で始発駅が好きです。そういう工夫をしています。 で、綾部に着きました。初めて降りる駅です。ここで困ることがあるんですね。電車は降りたけど、改札の場所が分からないんです。車内放送で「綾部です」っていうから降りた。だから間違ってはいないんだけど、改札が分からないと外に出れない。講演に来れないわけです。これは結構大変ですね。それでね、もしトイレに行きたいときなど、それを探すのがまたややこしいんですよ。 改札出ました。お迎えに来ていただいてましたが、お会いするの初めてですね。僕は見えないから、探すことはできません。だから、探してもらわないといけない。まあ、今日は深田さんも一緒だったので、すぐ見つけてもらったけど。 ■手引きの技法 で、とりあえずここまで来れました、と。もしね、駅から一人で行く場合、たぶん道に迷います。どうせ、同じところをいったり来たり、キョロキョロしながら歩いているんだろうと思います。そうしたときに、誰かが声をかけてくれたらすごく助かりますね。こちらから声をかけるのは、なかなか難しいんです。人(らしきもの)を見つけて、声をかけたら、それはクマだったとか、まあ、そういうことはないにしても、「あのう、すいません。公民館ってどこですか」っていったら、「ファット?」とかですね、逆に英語で聞かれて困ってしまったりしてね(笑)。 信号待ちをしているとき、音声が着いている信号なら大丈夫なんですが、そうでないところは信号が見えないので、いつまでも渡れません。青信号なのに突っ立っているのを見かけたら、「青ですよ」と、一声かけてもらえると嬉しいのに。でも、実際はね、一緒に信号待ちしてた人がそそくさと自分だけ渡ってですね、気が付いたら僕一人、とかね。そういうことはよくあります。だって、周りの人は赤信号を無視しているだけかも知れない。それに僕が着いていったら、「赤信号、みんなで渡れば怖くない」じゃないけど、そんなことになってしまうでしょ。 声をかけてくれるのはいいんだけど、それは時として迷惑になるんだ、ということも知っておいてほしいですね。ホームから落ちそうとか、危険なときは無理矢理引っ張ってもいいですけど、案内しますとかいって、腕掴んで、引っ張って行かれたら、どこに連れて行かれるのか、こっちは恐怖ですよね。「階段です」といってくれるのもいいけど、上りと下りでは足の出し方が違う。 あるいはですね、かつて僕が道を歩いていたら、親切そうなオバサンが声をかけてくれて、一緒に行きましょうっていってくれた。でもね、歩き慣れた道だし、歩道も細いし、オバサンは自転車を押していたから、余計に歩きにくいのね。でも、「ここ信号ですよ。まっすぐ渡りますか?」みたいに、ずっと着いてくる。家に帰るところだったので、だんたん不安になって、「ありがとうございます」って何度も言ってるのに、ずっと隣にいるんです。もうすぐ家、ってとこまで来て、オバサン、まだいるんですね。家の場所を赤の他人に知られたくないわけですよ。悪気はないんでしょうけど、ストーカーだったらどうしようとか、気になるわけですね。まあ、僕が男で相手がオバサンだから、そこまで神経質にはならないけど、もし、女性の視覚障害者にオジサンが声をかけて、ずっと着いてきたりすると、さすがに嫌でしょうね。もちろん、駅に行くときとかならいいですよ。でも、家に帰るときはね。結局、「買い物していくので」と言って別れましたけど。 それで、さっき手引きの話を少ししましたね。腕を掴んで引っ張るのはよくない、って。でもね、服を引っ張ったり、カバンを引っ張ったり、そういうのはもっとダメですね。じゃあ、正しい方法はどういうものか、ということで、今からちょっとその事を話して、今日の話は終わりにします。 絵が描いてあるプリントを2枚配ってもらっていると思いますが、「図1」というのを見てください。手引きの基本は、手引きする側が自分の肘を掴ませてあげて、相手の半歩前を歩く、というものです。誰か、僕と同じくらいの背丈の人、ちょっと僕を手引きしてもらえますか? で、これは身長がだいたい一緒の時です。身長差があるときはどうするか。肘の代わりに肩を掴ませてあげます。はい、僕より背の低い方、誰か前に出てきてくださいますか。こういう感じです。 図2は狭い道での手引きの方法です。狭い歩道とか廊下ですね、そういうところではこれを使います。「道が細くなっているので」と、一声かけてくださいね。 図3は段差の上り下りです。「談があります」といって、1段上に上る。そうすると、どれくらいの段差かだいたい分かるので、それに合わせて渡る、と。図4は階段ですが、階段の場合も同じですね。 図5は溝をまたぐときです。溝をまたぐことはあまりないかも知れませんが、電車の乗り降りはこれを使ったらよいと思います。図3との組み合わせですかね。ここでは一緒にまたぐとなっていますが、とくに溝の向こうとの間に段差がある場合などは、手引きする側が先に渡ってもよいでしょう。 図6のエスカレーターですが、ベルトを掴ませてあげるということですね。あとね、ステップとステップの間に立っていると危ないので、「もう少し前」とか「もう少し後」とか、声をかけてあげると親切です。 図7を見てもらうと分かりますが、一人で乗るときなど、杖を前のステップに置きます。杖と自分との差がなくなると、もうすぐ終わりだな、と分かるわけですね。 図8は、誘導する人の絵がありませんね。たぶん、書くと分かりにくいから書いてないんだと思うんですが、机と椅子の背もたれの位置とを教えてあげるという意味です。これ、誰か実際にしてみますか? 図9は自動車に乗る場合。視覚障害のある人を自分の車に乗せたり、一緒にタクシーに乗ったりするときに知っておいた方が良いことです。これも手引きする人の絵がないですが、車の座席を教えてあげると同時に、天井に頭が当たらないように気をつけてね、ということですね。 図10は、一人で複数を手引きするときのやり方ですが、これはとりあえず飛ばします。あまり好ましくないので、やむを得ない時以外はなるべく使わないでください。 最後に図11。飲食店にお勤めだったり、視覚障害者と一緒に食事をすることがあれば、ぜひ思い出してほしいんだけど、お箸の場所などを時計の針に見立てて教える方法があります。まあ、最近はデジタルの時計を使っていて、時計の針といわれても読めないって人が増えていますけどね。「6時の方向にお箸があります」とか「3時の方向にコーヒー置きますね」とかですね。 手引きについて、非常におおざっぱに話してきました。質問はあとで受けたいと思います。ただ最後に一つだけいっておきたいのは、さっき説明したような手引きの方法が全てじゃない、ということです。こういう方法より別の方法の方が良いという人もたくさんいますし、そういう人には、その人にあった方法で手引きをしてください。手引きする側のやり方を押しつけるのではなくて、相手のやりやすいやり方で手引きするとよいのではないかと思います。 ■勉強について 私は普段、本を読むとき、特殊な眼鏡を使います。これです。これを使って、こうやって近づけて読んでいます。 あるいは、拡大コピーを取ります。そうすると眼鏡なしで読めるので、あんまり疲れない、というわけです。でも、最近はそれだけじゃなくて、もっと便利なものがあるんですね。パソコンで文字を拡大する、ということができるんです。拡大コピーだと、非常にかさばりますが、パソコンだとそういうことはない。ちょっと見てみますか? じゃあ、スクリーンを見てください。本の文字をデータとしてもらいます。それを読み込んで、ここに貼り付けます。そうすると、こんな感じですね。 僕が文字を書くときは、こんな感じで書いて、あとで小さい文字のレイアウトに貼り付けるか、誰かにやってもらうかしています。こんな感じです。僕はメールのやりとりも普通にしますし――いや、たぶん普通以上でしょうが――、ホームページもつくっています。そういうことも、いとも簡単にやってしまえます。 僕は使ってないですが、喋るパソコンっていうのがあってね、ここにある文字を読み上げてくれるんですね。そういうのも、使っている人は多いです。 パソコンはあとでも使いますが、一旦終わります。 ■とりあえずのまとめ・2 他にも話しておきたいことはいろいろとありますが、とりあえずざっとこんな感じにします。あと、こういうときはどうしてますか、みたいなことを、いろいろ質問してください。 UP:20051007 ◇講演会資料/発表レジュメ など |