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座談会

視覚障害者が高等教育機関で学ぶ――スーダンと日本の経験を語る

2007/08/09 於:東京大学先端科学技術研究センター
青木 慎太朗(立命館大学大学院先端総合学術研究科・グローバルCOE「生存学創成拠点」・羽衣国際大学人間生活学部非常勤講師)


 *「視覚障害者が高等教育機関で学ぶ――スーダンと日本の経験を語る」というタイトルで開催された座談会に、予め用意した原稿が以下。話す予定だったメモであり、当日は座談居合いの文脈の中で話したため、実際に話した内容とはかなり異なる。
 *なお、当日の様子は、主催者であるアフリカ日本協議会発行の『アフリカNOW』という機関誌に掲載される予定。


■はじめに
 私は視覚障害の中でも弱視というものに分類されます。視覚障害のことに詳しい方には、それがどういうものかは説明の必要がありませんが、今日はそういう方ばかりではないようなので、導入として、まず、弱視について簡単に述べたいと思います。その後、私自身がどういう教育を受けてきたのか、あるいは受けているのかについて述べていきたいと思います。
 視覚障害を大きく分けると、全盲と弱視があります。全盲というのは、まったく見えない人のこと、そして弱視というのは少しは見えているが見えにくい人のことです。この分け方は非常におおざっぱですが、とりあえずここではそういうことにします。私は左目はまったく見えていませんが、右が少しだけ見えています。「どういうふうに見えているのか?」と尋ねられることがありますが、私は先天性の弱視で、普通に見えることを知らないので、「普通に見えます」としか言えないのが現状です。ただ、それでは説明にならないので、よく使う説明としては、ホームで電車を待っていると、電車が止まっているかどうかは分かりますが、電車の行き先、普通か急行かなどが分かりません。その表示が読めません。会場に人がどれぐらいおられるかはなんとなく分かりますが、それぞれの人の顔などはまったく分かりません。ですから、この会場にもし私の家族が私に内緒でこっそり潜り込んでいても(そんなことはしないでしょうが)、私には分かりません。
 見えるか見えないかという分け方の他に、どういう文字を使っているかで分けるという方法があります。私は講演会や講義で必ずやるのですが、視覚障害あるいは視覚障害者といって思いつく単語を1つずつ10人ぐらいに挙げてもらいます。すると、必ず出てくるのが点字です。他には盲導犬や白い杖などです。弱視者用の拡大レンズなどは、滅多に出てきません。視覚障害者といえば点字というほどに一般には認知されてしまっている点字ですが、視覚障害者の中で点字を使える人は約1割だと言われています。全盲の人がみんな点字の読み書きができるというわけではありません。これは後の話でも重要になってきますので、憶えておいてください。弱視者、見えにくい人たちが使っている文字としては、拡大文字があります。拡大文字というのは、本や資料などを拡大コピーするという場合と、拡大レンズや拡大読書機といった器具を使って拡大して読むという場合があります。最近では、高齢等によって視力が低下した人たちも含め、ロービジョンという言葉が使われていますが、視覚障害者がだいたい30万人なのに対して、ケアを必要とするロービジョンの人たちは100万人はいるだろうといわれています。
 視覚障害者の支援といえば、点字をはじめとして、まったく見えない方の支援のことを皆さん考えがちですが、そして、それはとても大切なことで、まだまだ足りていないわけですが、今日は他の人たちがその点は言ってくださると思いますので、私は見えにくい人たちとその支援について、自分自身の経験を交えながら、大学での支援を中心に話します。

■大学に来るまで
 私は小学校卒業までは地域の学校にいました。授業中、黒板を見るときは単眼鏡という望遠鏡みたいなのを使い、手元の教科書は拡大コピーをして授業を受けていました。体育は、球技以外は普通に参加していましたが、球技は見学していたり、他のことをしていました。元々運動は苦手で、今でもそうなんですが、体育が見学になることを自分ではけっこう喜んでいたんですけどね。よく、特別扱いされるのが嫌だったという人がいますが、球技に参加してボールが当たるのは痛いから嫌だし、ボーッと見てたら時間が過ぎていって、嫌な体育が終わってくれるというのは、自分ではそれなりによかったのでした。ただ、これはあくまで私の個人的な問題ですから、みんなと一緒にやりたいという人たちの気持ちは最大限尊重すべきだと思います。そしてそれに危険が伴うなら、危険を回避しつつみんなと一緒にできるような配慮が必要です。たとえば、体育の時間に補助員をつけるとか、ルールを工夫するとかです。
 中学と高校は盲学校に行きました。視力が悪くなったわけではないのですが、地域の学校にいると、みんなと遊んでばかりでちっとも勉強しない、ということもあって、少人数でびしびし鍛えてもらえる盲学校の方がよいのではないかというのが、一番の理由です。他にもありますが、結果的に盲学校に行くことによって、ずいぶん勉強するようになりましたし、勉強が好きにもなりましたから、この決断は正解だったかなと思います。小学校の時は宿題は忘れてばかりでしたからね。「忘れる」というのは言葉の誤用で、正しくは「していない」ということです。
 盲学校に行くと、配布されるプリントや試験問題は全て拡大されているわけです。実験なども、見えにくくても分かるように工夫されているわけです。体育も、相変わらず苦手でしたが、見えなくても楽しめるようになっているわけです。ここで私は、勉強すること、スポーツをすることのおもしろさを知ることができました。まあ、美辞麗句を並べていますが、その辺は適当に割り引いて聞いてください。
 大学受験を意識するようになると、予備校に通い始めました。盲学校には受験指導の体制がなかったということと、大学受験を目指すのが私だけだったということと、盲学校からいきなり大学に行くと、授業の雰囲気というか、授業の受け方というか、そういったものが十分に分からないのではないかと不安になってきたというのもありました。予備校では、テキストやプリントを拡大コピーする、最前列の真ん中の座席を確保する、という条件で入りました。板書が移せなかったところは、授業の後で先生に質問にいって教えてもらったりして、そういう感じで、大教室で授業を受けるというスタイルに慣れてきました。それもあって、大学に入学して、大教室の授業でどうしようか、ということは、あまり心配しませんでした。

■大学での支援
 それではここからは、大学の話に入ります。
 大学では、予備校と違って、教室の前の方は空席なので、座席指定をする先生の授業以外は、前の席を確保してほしいという要望などは出しませんでした。大教室でも前の方はがらがらで、そんなところにいる学生はまじめな人がほとんどです。私のように、適当にヨダレ垂らして居眠りをしているような不真面目な学生は、前にいるのが申し訳なくなるような時もありましたが、予備校の時のように、板書が移せなかったり、スライドが見えなかったりしたときには、後で先生に質問して対応してもらいました。運がよかっただけかも知れませんが、そういうことを嫌がる先生に出くわすことはありませんでした。というのも、おそらく私が授業のはじめに、自分には視覚障害があってほとんど見えていないこと、どういうサポートが必要なのかということを伝えていたことが挙げられると思います。
 プリント類の拡大の他、字幕のビデオには読み上げなどの解説をしてもらいました。ビデオを流してから、先生がそばに来てくれて、場面の説明をしてくれることもありました。スライドはプリントしたものを拡大して渡してくれたり、データでくれたりしました。
 ただ、大学で必要になる支援は授業だけではありません。教室の移動、大学の施設の利用、大学から発信されるさまざまな情報の受け取りなど、見えない、あるいは見えにくい人にとって、そのままでは満足に学生生活が送れないものがあります。教室移動については、ルームナンバーを見やすくしたり、あるいは点字表記をつけるといった工夫をしている大学もあります。ただ、私の場合は、階段からの大体の距離で憶えていて、ルームナンバーを見て歩くのは初回だけなので、これは要望しませんでした。大学の施設というのは、ちょうど私が大学に入ったのはパソコンが普及し始め、大学にもパソコンルームが設けられて、学生が自由に使えるようになったり、レポートをパソコンで書いて出すように指示されるようになってきた時代でしたから、それへの対応が必要になってきました。パソコンについては後ほど詳しく話しますが、音声ソフトの入ったパソコンを、別に用意してもらう必要があります。
 大学を出て、大学院に来てしまったわけですが、大学の障害者支援が障害のある学生の就職や進学の支援まで十分に担いきれていないという問題を、ここで指摘しておきたいと思います。私のいる立命館大学でも、障害学生支援は発展途上にあり、いや、発展しているのかどうかすら怪しいですが、とりあえずそういうことにしておきますが、そういう大学では、学部の障害学生に対する授業の支援しか行えていない現状があります。障害学生支援として、何をしたらよいか、分かっている人は分かっているのですが、分からない人は分かっていない。大学にも当事者にも、このことが言えます。そして、大学院生の研究支援ということになると、これはまた難しいわけです。大学は授業での支援を重視しているわけですが、大学院になると授業はほとんどなくなり、それぞれの研究が重要になってきます。視覚障害学生の場合、授業そのものの支援というよりは、文献や資料の文字情報を、点字や音声やデータに変換するという支援が重要になってきますが、これは授業とは関係なく、むしろ大学院になるとニーズが増えるわけです。そしてもちろん、それらにはお金が要ります。そのお金を誰が負担するのか、本人なのか、大学なのか、あるいは、より広く社会的に負担するという規制を作るべきなのか、私は最後のを支持しますが、そのための議論はまだ十分にできていません。
 研究者になるということは、やがてはどこかの大学で教える立場になるということでもあります。私はこの春から、大阪の羽衣国際大学というところで、非常勤講師をしておりますが、そこでの支援について簡単に述べます。大学には支援を必要とする障害学生はおらず、私は学内で最重度の障害者になるようです。障害学生支援の制度ももちろんありません。そんな中で、ちゃんと仕事ができるのかという不安もありましたが、授業で配付する資料の印刷などはすべて大学がやってくれますし、その際、私の分は拡大してくれます。大学からの事務連絡も、拡大コピーでもらうようにしています。出席簿も拡大コピーされたものです。そういうことを、特に支障なくやってくれています。また、福祉系の学科ということで、実習助手が雇われているわけですが、その人たちも私の仕事を手伝ってくれています。そのため、今はまだ立命館の博士課程に籍を置いていますが、正直な話、立命館よりも居心地がいいです。

■高等教育における視覚障害者支援とパソコン
 最後に、高等教育における視覚障害者支援とパソコンの活用についてまとめて述べます。
 パソコンには、スクリーンリーダーといって、画面に書いてあることを音で読み上げてくれるソフトウェアがあります。全てを読んでくれる万能なものとまでは言えませんが、メイルのやり取り、ホームページの閲覧、文書ファイルの読み書きなどができます。見えない人がメイルなんてできないだろう等と誤解されることがありますが、ソフトウェアを使えばパソコンは使えます。そして、それによって、視覚障害者は飛躍的に便利になりました。私も、スクリーンリーダーを使っていますし、画面も見ていますので、自分の見やすい大きさに設定を変えています。ホームページも作っています。arsvi.comという、立岩さんのページをご存じの方は多いと思いますが、その共同制作者になっています。
 見える人でもそうですが、パソコンを使いこなすには、相当の訓練が要ります。見えている人は、市販のテキストを見て学習すればある程度できるようになりますが、視覚障害者の場合はそういうわけにもいかず、また、パソコンを購入した際に、音声ソフトをインストールするだけではなく、マウスがなくても問題なく使えるように、設定をいくつか変えておく必要があります。見えている人は、デスクトップ上にたくさんアイコンを並べて、それをクリックしていると思いますが、視覚障害者が使う場合には、よく使うプログラムはスタートメニューに登録しておきます。また、フォルダの並べ方もちょっと違います。
 どこの立命館大学とはさすがに申し上げられませんが、障害学生支援室が、視覚障害学生のためにパソコンを買いました。私に相談してくれればよかったのですが、何の相談もなく、そして見に行ったら言葉が出ませんでした。起動すると、音声が二人で同時にしゃべるんですね。音声パソコンに詳しい方なら、何が起こったかもうお分かりだろうと思いますが、知識のない人がやるとこういうことになります。デスクトップ上にアイコンがたくさんありました。スタートメニューから起動しようとしましたが、登録されていないから無理なんですね。見えている人が使いやすいパソコンにただ音声ソフトを入れただけでした。
 別に大学の悪口が言いたいというわけではなく、ここで重要なのは、ただパソコンだけを用意すればそれでよい、ということではないということです。視覚障害者用パソコンについて、きっちりとした知識のある人の助言が必要です。もちろん、使う当事者が詳しい人なら、その人に聞くのが一番よいです。あるいは、学生がパソコンに詳しくない場合、情報教育が課題になってくるでしょう。近年、入学早々に情報教育を実施している大学が多いようですが、視覚障害者向けのメニューはありません。情報教育の教員も、ワードやエクセルの使い方には精通していますが、音声ソフトのことはほとんど知りません。そんなときに、視覚障害者への情報教育ができないままだと、パソコンを使えばできるようになることがたくさんあるというのに、とてももったいないことになってしまいます。
 パソコンは、画面を読み上げたり、拡大表示させたりできると申しましたが、本や論文のテキストデータがあれば、音声ソフトが読んでくれます。つまり、音で情報を得ることができるのです。大学院にいる視覚障害者は私の知る限り、みんなこれを使っています。星加さんの本や立岩先生の本などは、テキストデータが出版社から提供されていますが、こうした取り組みはまだまだです。スキャナで読み込み、OCRソフトで活字を起こして、それを原本と合わせて校正し、テキストデータを作るという、テキスト校正と呼ばれる支援が最近では盛んになってきています。点訳と異なり専門知識がいらないことから、誰でも支援に関わることができますし、時間も大幅に短縮できます。支援を受ける視覚障害者にとっては、時間の短縮も確かに重要ですが、それよりも、よりたくさんの文献にアクセスできるようになったということの方が重要なのではないかと私は考えています。
 ただ、課題があります。著作権です。著作権法では、勝手にテキストデータを作ることが難しいのです。個人で利用するということでなんとかやっている部分はありますが、たとえば、星加さんのためにテキストデータにした本があるとして、私もそれを読みたいなと思った場合、データをくださいねといってもらうことは、法律上無理なのです。それでは、また私のためにデータ化するのか、そしてもし同じ本を福地くんも読みたいといったら、またデータにしないといけないのか。
 必要な人が必要なものを得るということが技術的に可能であるにもかかわらず知的財産によって制約されているという構図は、けっして視覚障害者の読書だけではありません。アフリカのHIV/AIDSとアメリカの製薬会社の関係を思い出さずにはいられません。もちろん、そう単純に結びつけることは適当ではないですが、視覚障害者の文字情報へのアクセスには、こうした製薬があるのだということは知っておいていただきたいと思います。

 これまで話してきたことが、どれだけお役に立つかは分かりません。恥ずかしい話、私自身がスーダンの事情をほとんど存じ上げないからです。ただ何か、少しでも参考にしていただけるものがあったなら、幸いと存じます。
 それでは、とりあえず私からは以上です。


UP:20070822
講演会資料/発表レジュメ など