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ひとりでできることの価値を問う
――という視覚障害者の戦略的生存学――

2007/12/01 『視覚障害リハビリテーション』66:5-18
青木 慎太朗(羽衣国際大学非常勤講師)


  *これは私が送った最終校正前のデータです。引用等される際には、必ず原典に当たってください。

0.はじめる前に
 本論に入るに先立ち、今回本誌に初めて寄稿させていただくこともあり、筆者が何者であるかを簡単に述べる。そして、「生存学」という(おそらく)耳慣れないものについて、簡単に説明する。
 筆者は先天性の弱視であり、小学校まで地域の学校に通い、中学高校と盲学校で学んだ後、同志社大学に進学。社会福祉学を専攻し、大学院総合政策科学研究科で福祉政策を専攻した後、立命館大学大学院先端総合学術研究科に移り、現在は立岩真也教授のもと、主に大学における障害者の支援について研究を行っている。独立行政法人メディア教育開発センターの研究員をしていた時期もあり、とくに視覚障害者支援とIT活用に関心がある。現在は羽衣国際大学人間生活学部において、介護福祉を学ぶ学生に対して、視覚障害者支援と障害者福祉について教えている。
 旧来からの――そして今もなお温存している――障害者支援をめぐる言説は障害者を援助の対象すなわち客体としてのみとらえ、障害者自身の視点を欠いていたことは否定できないだろう。そしてこれは、言説空間に限定される問題ではなく、障害者支援の実践においても同様であると思われる。このことは、筆者がこれまで「対象者」として関わってきた視覚障害(とくにロービジョン)に対する支援の経験からも言えることである。
 こうした状況に懐疑的なのが障害学であった。障害学は障害(者)を扱う既存の学問を問い直し、障害の社会モデル(本論で言及する)を提示したことなど、研究上は言うまでもなく、実践に対して及ぼした影響も大きい。ただ、それらは未だ十分とはいえない。
 生存学はまだ「学」として確立できておらず、その創成段階にある。生存学創成拠点はグローバルCOEに採択され、そこでは「障老病異と共に暮らす世界の創造」との副題がつけられている。異なったものたちがともに暮らすためには何が必要なのかを問おうとしている。筆者まさに、その渦中にいる。
 本稿は、以上のような背景のもとで書かれる。

1.はじめに
 2007年4月29日、JR大阪環状線桃谷駅で、視覚障害の夫婦がホームから転落し、入線してきた列車にはねられて重傷を負うという事故が発生した。一命を取り留めたことは幸いであったと思うが、視覚障害者が駅ホームから転落するという事故は、絶えることはない。多くの視覚障害者が、“明日は我が身”とおびえつつ、「欄干のない橋」とも表象される駅ホームを利用しなければならない現状にあることは、社会的に十分に認知されているとは評価しがたい。視覚障害者がこうした状況にあることは不当であるが、その不当性は理解しつつも、視覚障害者の支援に携わる者たちも、あるいは視覚障害者本人でさえも、このような状況を甘受してしまっているのではなかろうか。
 本稿では、桃谷駅事故の概要について説明した後、障害の社会モデルに立脚しつつ、視覚障害者の駅ホーム転落事故の実態に対して批判的検討を行う。その上で、リハビリテーション分野が価値を置くところの、“ひとりでできること”について考える。

2.桃谷駅事故の概要
 2007年4月29日、大阪環状線桃谷駅で発生した事故について、マスコミでも報道されたが、筆者は「視覚障害者の歩行の自由と安全を考えるブルックの会」として5月13日に事故現場に赴き、実地検証を行ったので、そこで明らかになった情報を加味しつつ、事故の概要をまとめる。
 被害者は全盲男性と弱視女性の夫婦である。妻が夫を手引きしていたと報道されている。事故当時、白杖は携帯していなかった。また、二人で歩いていただけで、駅員による介助などはなかった。
 向かい側ホームの電車の音を自分たちが乗る電車と聞き間違えて乗車しようとし、ホームから線路上に転落したところへ、自分たちが乗る予定だった電車が到着したとされている。
 次に事故当時の状況についてまとめる。なお、ここでは筆者らの行った実地検分をもとに述べる。
 まず、事故の当日は晴天であった。また、事故が発生した午後2時半頃の日照角度は、転落現場(外回りホーム)に向かってまっすぐ照りつける状態であった。改札からホームへは階段を上る必要があるが、そこから事故現場に歩いてきた際、“まぶしさ”を感じざるを得ない。
 ホームのアナウンスは列車接近時、および発車時に流されるが、スピーカーの角度から、対面する内回りホームのアナウンスもはっきりと聞こえてしまい、聞き間違う可能性もある。さらに、列車入線時にはアナウンスはない。
 事故発生時刻は午後2時半頃とされているが、実地検分の結果、2時25分に両方のホームにほぼ同着となることから、この時間に事故が発生したものと思われる。なお、これにまつわる重要な点として、2時25分に向かい側ホームを出発する列車は白色の車体であったことを付記しておく必要があるだろう。
 また、向かい側ホームの列車のエンジン音は、手前に停車する列車に比べてよく聞こえることが分かった。
 以上の点から、被害者夫婦は改札を入り、階段を上がり、列車接近を知らせる放送が聞こえたため、やや急いでホームに上がったところ、列車のエンジン音が聞こえたため、乗車しようと線路側へ急いだものと思われる。その際、(膨張色である)白い車体がはっきりと見えていて、列車が停車していることを信じて疑わなかっただろう。そして乗車を試みたが、実際には列車はおらず、ホームから線路上に転落したところへ、列車が入線してきてはねられたと推察される。
 もちろん、これは実地検分をもとにした推理に過ぎず、確証はないが、推察に至った根拠はすでに示したとおりである。

3.桃谷駅事故が提示するもの
 では、次にこの事故が提示した問題点をまとめてみたい。
 第一に、これまで視覚障害者の駅ホーム転落事故は専ら全盲の単独歩行を想定していたが、今回はロービジョン問題が絡んでいるという点である。ロービジョンは人によって見え方に違いがあり、気象条件などに左右されることもある。また、「見えている」ということから、駅ホームから転落するとは思われていなかった。
 第二に、第一の点とも関連するが、白杖の携帯である。視覚障害者は道路交通法の定めるところにより、白杖を携帯するものとされているが、法律以前に全盲の場合は白杖がないと歩けないという状況がある。しかし、少し見えている場合は、白杖は歩行する上で必要不可欠なものとは限らない。また、一般に白杖はスティグマの象徴であると考えられがちであることから、とくに中途視覚障害者の場合は白杖を携帯しないことも多いようである。今回の事故で被害者が白杖を携帯していなかったことを批難し、事故にあったのは白杖を携帯しなかった被害者の自己責任であるかのような主張がある。しかし、以下の理由から、こうした主張は排される。理由のひとつめは、ロービジョンの人が白杖をもつ場合、それは周囲へのアピールのためにもつのであって、地面にスライドさせたり、タッチして歩くことはないという点、理由のふたつめは、手引きされる人が白杖をもっている場合も、杖としての機能を果たしておらず、多くの場合は杖を地面から浮かせてもっているという点である。そのため、この夫婦のいずれかあるいは両方が白杖を携帯していたとしても、事故を防ぐのに役立った可能性は極めて低いと言わざるを得ない。可能性としては、白杖を見た他の乗客が「危ない」と声をかけていたかも知れないが、筆者らの実地検分やそれに基づく推理が正しいのであれば、そうした警告も間に合わなかったであろう。
 第三に、介助の問題である。駅員や他の乗客、あるいは移動介助(ガイドヘルプ)との関係について、考えてみる必要がある。今回の被害者は報道によるとデパートに買い物に行くために列車に乗ろうとしたとあった。そのような場合なら、ガイドヘルプを利用することは可能だが、前もって買い物に出かける日を決め、ガイドヘルプを予約することが、どれほど現実的だろう。障害のない人たちならば、気が向いたからふらっと買い物に出かけるということがあるし、むしろそのような場合の方が多いのではなかろうか。それに、仮にここでガイドヘルプを問題にしたとしても、ガイドヘルプは通勤や通学には使えないことから、駅ホームでの転落事故を防ぐための切り札にはなり得ない。そうなると、残るは他の乗客と駅員であるが、ひとりで杖をついて歩いている場合は別として、手引き者がいる場合など、他の乗客が視覚障害者に介助を申し出ることはほとんどない。駅員の介助については、JR西日本の公式発表によると、二日前に電話しない限り、確実にはやってもらえないのだそうだ。
 桃谷駅の事故と関係があるかどうか分からないが、事故からしばらくして、「お身体の不自由なお客様へ」というポスターがJR西日本管内の駅に掲示され、波紋を呼んだ。このポスターは申し出があれば駅員が介助することを示しているように見えるが、介助が必要な場合は「乗車の二日前まで」に連絡するよう記載されていた。障害者団体が移動の制限であると抗議し、JR西日本はポスターの撤去・回収を決めた。ただ、ホームページ上には今もなお残っており、「二日前までに連絡」という部分だけが赤の太字で強調されている。
 無人駅、駅員が一人しかいない駅など、急遽介助を求められても応じられないから、予め申し出てほしいというのがJR西日本側の本音のようだが、「乗車の二日前まで」に連絡することを強調するあまり、二日前までに申し出なければ介助してもらえないのかと抗議したのであった。また、このポスターには、駅員が視覚障害者を手引きしている(つもりの)イラストが描かれているが、よく見ると、視覚障害者が杖をつき、駅員の半歩から一歩前を歩いているようにも見える。駅員による介助、そして他の乗客に対する介助の啓発としては、問題の多いポスターだったという点は否定できない。
 ポスターやそれを掲示したJR西日本に対する批判はここでの主題ではない。むしろ、どういう経緯でこのようなポスターが掲示されるに至ったのか、その背後にある思想や障害者観について考える契機として、筆者はここでポスターを取り上げた。
 ここで考えなければならないことは、視覚障害者をはじめとする移動制約者に対し、鉄道事業者が介助する責任があるとなぜいえるか、その論理的根拠をどこに求めるかという点である。

4.障害はどこにあるのか?
 筆者は他稿で次のように述べた。
 「この社会は、見えないより見える方が便利なようにできている。それゆえに「ある治療を行った結果、今以上に見えるようになるなら、その治療を行うべきである」といったことが、とりわけ医療に従事する人たちの間から聞かれる。この二つの事柄は互いに連関するように見えるが、しかし考えてみるとおかしな話である。/ややもすると私たちは、治療されたり改善されたりするのが個人であるかのように考えてしまいがちであるが、見えないでいても不便でない社会であるなら、そもそも「治療した方がよい」とは当然のようには言えなくなるだろう。見えるようになることが本人にとって幸せであるかどうかも分からない。見えないでいても不便でない社会になることの方が幸せであるかも知れないし、見えないことをネガティブにとらえて治療に一生を捧げるよりも、見えない人生を楽しむ方が幸せであるかも知れない。」(青木2005:69)
 従来、障害とは「見えないこと」「見えにくいこと」そのものであると考えられていて、現在でもこうした考え方が支配的であるが、このような障害の個人モデルに対して、障害は社会的につくられたものであるとする障害の社会モデルが注目されてきている。筆者は基本的にこの立場に立つが、視覚障害者にとってアプリオリにできないことは眼で見ることそれ自体であって、そのことに起因する不可能性はすべて、(本人が原因ではなく)社会的につくられたものであるといえる。そして、社会的につくられたものである以上、それは社会的に除去すること、補完することが可能である。これでは分かりにくいので、具体的に述べよう。視覚障害者が単独で駅を利用するのが危険であるのは、本人が見えないからであると考えられているが、それだけが正しい答えではない。駅の構造が、あるいは、社会が価値を置くところの大量高速輸送の円滑という思想それ自体が、駅や公共交通を、見えない人たちにとって使いにくい、あるいは危険なものにしているのである。見えない人にとって駅が危険だというのが自明なのではなく、見えている多数者が使いやすいように、便利で効率的なように配慮した帰結として、その恩恵にあずかることができない、あるいはそれが利用できない者をそこから排除するに至ったのである。
 これは公共交通に限ったことではなく、さまざまな局面において同様のことがいえる。見えている人が使うことしか想定していないものはみな、同じである。訓練と称して施される事柄の多くは、こうした、見えている人が使うことしか想定していないものを、見えていない人が見えている人に伍して使えるようになることの訓練ではないだろうか。もちろん、見えている人が使うことしか想定していないものがあふれかえっている今の社会で生きていくには、それらが必要な能力であることは認めざるをえない。ただ、何かができること、できるようになること、とくにひとりでできることに付与された価値が過大であると筆者は考えている。

5.できる/できない、を問い直す
 視覚障害者にできないことは、眼でものを見ることだとすでに書いた。ただ、それで終わり、にはならない。眼で見ることと本来的に結びついていること、たとえば、真っ先に思い浮かぶものとして、車の運転がある。見えないのに運転すると本人が危険であるということが、理由として挙げられるが、もちろん、本人だけでなく周囲も危険であろう。だから視覚障害者には車の運転はできない。それは自明のことである。しかし、そうだろうか?
 未来社会を仮想してみよう。カーナビの技術が進歩し、予め目的地を登録しておくと、自分は車の中に座っているだけで、勝手に目的地まで行ってくれる自動車が開発されたとしよう。障害物があればセンサが察知し、危険を回避してくれる。交通ルールは遵守してくれる。運転手(というのも変な言い方だが)は寝ていてもよい。このとき、車を運転することと眼で見ることの関係は、現在のものと異なっていることは察するに難くないだろう。現在ではタッチパネルが採用されているカーナビを視覚障害者がどうやって操作するのかという指摘・反論はさておいて(おそらく、こういう技術が登場する頃にはクリアされているだろう)、見えなくとも車が運転できることになる。
 つまり、見えないから車が運転できないというのは、本質的にそうなっているのではなく、時代や場所など、すなわちその社会によって規定されるものに他ならないことが分かる。それゆえに、見えないことによって生ずる不利益や困難も、社会的につくられたものであるといえる。
 もちろん、ここまでいえたからといって、障害に起因する不利益は社会的に取り除かれなければならない、とはすぐにはいえない。たとえば格差や貧困が社会的につくられたことがいえたとして、それは社会的に取り除かれなければならないとすぐにならないのと同じである。社会的につくられた以上、社会的に取り除くことが可能であることは確かであるが、それを具体的な制度・政策に反映させるかどうかは、また別の問題になる。そこにはさまざまな主義・主張があり、たとえば公的サービスの縮小(小さな国家)を標榜する新自由主義(ネオ・リベラリズム)や、できることに価値をおく能力主義がはびこる社会――すなわち現在の日本社会――では、障害を社会的に補うという発想は生まれ難い。
 先述のポスターについていうなら、そもそも、利用者の少ない駅は無人化し、そうでないところでも徹底した人員削減を行うというのは、国鉄の分割民営化、それによって目指された効率性の重視という、新自由主義が付与した価値による帰結である。民営化や小さな政府を目指す先に何があるのか。そこで追求される合理性は、誰にとって都合の良いものなのかを考えてみよう。本論の主題である鉄道利用を例に取るなら、改めて申すまでもなく、駅員がいなくても問題なく鉄道を利用できる人たち、である。そこでは、駅員の介助がないと鉄道を安全に利用できず、それによって自由な移動が制約される視覚障害者(もちろん、視覚以外の障害者も同じだが)は排除されてしまう。視覚障害者の安全な駅利用、そのためのサービスの充実を訴えるなら、新自由主義が志向するこうした社会のありように疑義を唱える必要があるのではないか。
 そして、もうひとつ、たいへん重要なものが能力主義との関係である。能力主義はできることを肯定し、できないことを否定してきた。そればかりか、できること(能力)とはたらけること(労働市場への参入)と受け取れることとを結びつけてきたのであった。たとえば、ある人が見えなくなることによって、それまではたらいていた職場から追い出され、他の仕事にも就けず、そのことによって受け取れなくなる。

6.リハビリテーションの価値をめぐる問い
 こうした状況に対して、職業リハビリテーションが行ってきたことは、さまざまな訓練を施し、その人を何らかの職業に就かせることではなかったか。そこでは、できないことができるようになることに価値が置かれ、できることをできないことの上位に位置づけることによって、できる(目標)/できない(自分の現状)の間にある葛藤を、障害者に押しつけ続けてきたのではないか。見えないこと、それによって何かができなくなったことはマイナスの要素であり、それは克服されるべき対象であり、それを克服するのは本人である。白杖を用いた歩行訓練が、この典型であろう。目的地までひとりで行くことに価値を置くからこそ、歩行訓練の存在意義があるのである。「ガイドヘルプをどんどん使いましょう、駅を利用する際は駅員に頼みましょう、見えなくて不自由なのはこの社会がそういう社会なのであって、そこにある不利益は社会的に補われるべきです」といった発想とは相容れない。こういう主張は、歩行訓練の存在価値を低下させ、ひいてはリハビリテーションに従事する人たちのアイデンティティを侵食するだろう。

7.ひとりでできることの価値
 ひとりで歩けることに、どういう価値があるか考えてみよう。まず、ひとりで歩けた方が便利である。行きたいときに好きな場所に行ける。通勤通学だけでなく、休日の余暇、あるいは、ふらっとどこかに宛もなく出かけることもできる。しかし、こうした便利さは、それができない人たちに対し(それができる)他人が介助することによって補うことができる。現状では、いつでも気軽に介助が受けられるわけではないことは桃谷駅事故のところですでに指摘したが、だとすれば、それがいつでも利用できるように供給体制を整えることの方が重要ではないのか。誤解のないように付記するが、これはけっして事業者に対して努力せよといっているのではない。ガイドヘルプをタクシーのように利用できる制度が必要なのではないかといっているのである。
 ひとりでできることの価値のもう一つに、他人にしてもらうことの煩わしさ、あるいは自分で歩いていくことそれ自体の価値、ある種の達成感のようなものがあるかも知れない。自分でできることそれ自体に伴う快である。そして、これを社会的に補うことは不可能である。ただ、ひとりでできることの快と便利さを、どこまで切り離せるかは疑問である。便利であるがゆえの快があるだろうからだ。

8.費用負担の構図
 現在のリハビリテーションの価値を批判し、ひとりでできなくてよい、必要ならば介助を求めればよい、とはいってみたが、では、その介助を誰が担うか、そして、そのために必要となる費用を誰がいかにして負担するのかという問題は避けて通れない。担い手がいない、あるいは、費用を負担する仕組みが未整備であることが、介助を得ることを難しくし、ゆえに、ひとりでできること/できるようになることを価値付けてしまっている現状は否めない。そこで、少し考えておくことにする。
 視覚障害者の駅ホームからの転落事故はなくなることはない。ホームドア、可動式ホーム柵などの導入は進んでいるが、一方で、駅ホームからの飛び降り自殺、酔っぱらいの転落など、駅ホームの危険性は明白であり、駅ホームの安全対策は、単に視覚障害者の転落防止に役立つだけではない。
 しかし、安全対策には費用がかかる。それを誰が負担するのかという問題がある。安全対策のために運賃が大幅に値上げされるとして、どれほどの人が賛成するだろうか。コンセンサスが得られないなら、それは控えるべきなのか…
 いや、そうではない。すでに述べてきたとおり、現在の鉄道は障害のない人たちにとって便利なようにできており、彼らはそこから(安価に鉄道を利用できるなどの)利益を得ているのである。その利益は当然のものではなく、そのままでは利用できない人たちの犠牲の上のものである。それゆえに、それらはある意味で不当な利得であるといえるだろう。
 だから、運賃を値上げするなど、現在の鉄道事業の形態においてすでに利益を得ている人たちに今以上の負担を求めてでも、誰でも安全に自由に利用できる公共交通にするために設備を改善せよという主張は支持される。しかし、運賃の値上げなど、鉄道事業者単位で取り組む以外に方法がある。それは、より広く、税金で対応するという方法である。鉄道事業者単位の取り組みでは、鉄道を利用しない人たち、つまりは移動に自家用車を使う人たちなどを排除することになる。しかし、社会的費用負担として考えるなら、視覚障害者をはじめとする移動制約者の権利は鉄道を利用する人たちだけで守ればよいというより、他の移動手段を用いる人たちも含めた、より広い規制の下で行われなくてはならないことになるだろう。また、筆者がこれを支持するのは、すべての人々から強制的に費用を徴収できるのは税金のみだからでもある。
 ただ、現時の政策はこれと正反対の方向に向かっている。政府の関与を減らし、負担を抑え、できるようになることを促す。その現れが障害者自立支援法であることはいうまでもない。自立支援法の問題点について、ここで改めて整理するだけの余裕はなく、また、その多くはすでに主張されていることだから、ここでは割愛するが、ただ一つだけ。「障害者も1割ぐらい払えよ」という意見があるようで、それをもっともらしく支持する人たちがいる。サービスを利用したら、その分を払う/払わなければならない、というのは、一見当たり前のようにも思えてしまうからだろう。しかし、何かをするにも、どこかに行くにも、あるいは、生きていくことそれ自体に介助が必要な人たちにとって、それらすべてに負担を求められると、どういうことになるだろうかと考えるべきである。そうでない人たちが、普段何気なくできてしまっていること、そしてそれを当然のことと思っていることにも、負担しなくてはならない人たちがいるのだ、ということを。そして、自分ができてしまうことは当然ではなく、身体機能が人並みであれば暮らしやすい/人の力を借りないでも暮らしていけるという社会だからこそ、障害者が負担している/負担せよといわれているものから免れているのだ、ということを。
 公共交通を利用した移動について考えるとき、私たちは電車やバスを思い浮かべる。それは間違いではないが、それだけでもない。なぜか排除されてしまうタクシーも、れっきとした公共交通機関である。国土交通省や各地方の運輸局が監督官庁であり、たとえば正当な理由なく乗車拒否を行った場合、ペナルティが課される。普段の移動にタクシーを使うというと、とても贅沢なように思う人が多いようだが、本当だろうか。マイカーを保有している場合と比較してみると良い。まず車を買う費用、(自宅に車庫がない場合の)車庫代、車検の費用、自賠責保険や任意保険の保険料、それにガソリン代… これらすべて含めて、月額いくらになるだろう(車や車検の費用は金額を月で割ること)。そして、それをタクシー代に換算すると… 車の運転ができない(したがって、先に示したような費用が要らない)視覚障害者にとって、タクシーが贅沢品だといえるだろうか?
 仮にいえたとしよう。いえたからといって、だから控えよ、とはならない。見えないがゆえに電車やバスを利用するのが困難な場合、たとえば電車には乗れるが駅に行けない場合、安全で自由な移動を保障するには、ひとつに、誰かが介助するという方法があるが、それが十分使えないという点はすでに述べた。そうすると、また別の方法、つまり、お金を払えば目的地に運んでくれる方法がある。それが使えるのであれば、使えばよい。目的地まで徒歩で行こうが、バスで行こうが、タクシーで行こうが、それはまったく本人の自由であり、他人の利益も害さない。ただ、タクシーを利用する必要があるにもかかわらず、利用できるだけのお金がない場合はどうなるのか、という問題が残る。そして、この時点で、障害の問題から離れ、経済の問題に移っているのである。
 その負担は、分配を通して社会的に担いうる。現在は、貢献に応ずる分配の機制が採用されている。簡単に説明するなら、どれだけ働いたかによって受け取りが決まるという仕組みである。しかし、それが唯一絶対のものではない。たとえば、必要に応ずる分配(簡単にいうなら、どれだけ必要かによって受け取りが決まる)という機制がある。
 ここにいろいろと書いてきた。どれも突き詰めて論じてはいないし、どの仕組みも万能ではない。ただ、視覚障害者の安全な移動ということを手がかりとして、さまざまなことが考え得ること、あるいは、さまざまな議論が参照可能だということについて、ここでは述べてきた。
 見えない人たちがさまざまな不自由を抱えながら生きていかなくてはならないのは、この社会が、見える人たちに便利なようにできているからである。見えることを前提とした生活を、見えない人が営むことは難しいというのは、当たり前のことである。しかし、「見えない人たち」は、「見ないで生活する人たち」あるいは「見える生活をしない人たち」とも言い換え可能ではないだろうか。そして、実際にそうしてみたとき、そこにある感じ方の違いに気づくだろう。
 生活スタイルの違い、文化の違いによって、特定の集団が不利益を被ることがあってしまう。不利益を受けたくないなら、少数者は他数者に合わせよ、という社会のあり方に対して、そもそも不利益を受けないでよいような社会にすべきである、そう変えていこうという主張がある。見えない人に見える人と同じスタイルで生活せよ、というのは、見えない人たちに対して一方的な努力を(しかも生涯にわたって継続的に)求めるという、実に不公平なやり方である。情報入手の方法、家事の方法に多様性が認められて良いのと同様、移動のスタイルにも、多様性が認められて良いだろう。安全に自由に移動できるように、個々人にあった移動スタイルがあってよく、そこに生ずる負担は、社会的に負担されるべきである、という主張は支持される。
 視覚障害者は、障害者であると同時に文化的少数者なのである。

9.おわりに――生存学に何が言えるか?
 本論の前半で桃谷駅の事故について述べてきた。視覚障害者が安全に自由に駅を利用できるように、移動できるようにするにはどうすればよいのか、これに対して生存学に何が言えるか、最後に考えてみたい。
 見えない人も見える人に伍してひとりで歩けるようになりましょう、というリハビリテーションの方法は、事故を防ぐための有効な解を示し得ないことはすでに述べた通りである。そして、他人の介助についても、現状では十分ではないと述べた。その現状を改めよということが(そのために何が必要なのか論ずることを含め)、我々の提示できる一つの解である。あるいは、目的地に到達するという目的を達するために、他の人と異なる手段があることを示し、その方がわたしたちの生にとってむしろ戦略的であること、そのための負担が必要ならそれを社会に要求すればよいこと、そしてそれが正当な要求であることもまた、生存学が提示しうる解である。
 そしてなにより、本論後半で述べてきたとおり、ひとりでできることをできないことの上位に位置づけるというリハビリテーションの価値規範そのものに疑義を唱えることである。


謝辞
 本稿執筆に際し、立命館大学大学院先端総合学術研究科院生で作業療法士の田島明子氏に有用な助言をいただいたことを記しておきたい。氏はリハビリテーションの現場に身を置く傍ら、「障害の受容」という言葉の用いられ方に疑念を抱き、それを皮切りとしてリハビリテーション批判を展開している。リハビリテーションに従事している方には是非とも参照されたい論考である。


参考文献
青木慎太朗,2005,「幸せのカテゴリー──障害はリスク、治療の対象か?」,『福祉のひろば』:2005年9月号:69
後藤玲子,2000,「自由と必要――「必要に応ずる分配」の規範経済学的分析」,『季刊社会保障研究』,36-1:38-55
田島明子,2006,「リハビリテーション領域における障害受容に関する言説・研究の概括」,『障害学研究』2:207-233
――――,2007,「障害受容再考――障害受容をめぐる問い」,『地域リハビリテーション』2-7〜(連載中)
立岩真也,2000,「多元性という曖昧なもの」, 『社会政策研究』1,東信堂
――――,2001,「できない・と・はたらけない――障害者の労働と雇用の基本問題」,『季刊社会保障研究』,37-3:208-217


UP:20070718
原稿