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障害学的視座からの「障害学生支援」再考(読み上げ原稿)
2006/06/03 障害学会 第3回大会

青木慎太朗(立命館大学大学院先端総合学術研究科)


 *レジュメはこちら(HTMLPDF)。

 立命館大学大学院の青木と申します。本日は「障害学的視座からの「障害学生支援」再考」というテーマで報告をさせていただきます。どうぞよろしくお願いいたします。
 今回の報告では、障害学生支援研究の動向について、現状を整理して報告した後で、その問題点を挙げ、障害学から何が言えるのかを考えたいと思います。

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 まず、レジュメの冒頭ですが、わが国で障害学生支援が大学の業務の中に組み込まれたのは1990年頃からであると考えられています。もちろん、それ以前にも障害者は大学に在籍しておりましたし、インフォーマルなものも含めると現場では支援がなされていたのですが、それが支援制度として確立されたこと、大学側がそれに責任をもとうとし始めたのが1990年代、ということです。他方、アメリカでは1970年代からバークレイを中心に障害学生の支援は重要なテーマとして認識され整備されてきました。また現在、EUでは、HEAGデータベースというものがあって、これはHigher Education Accessibility Guideの略なのですが、ここにはEU各国の障害学生支援に関する情報が集約されております。進学や留学に際して、障害者自身がその支援を確かめることができますし、大学も責任をもって情報を発信しています。
 それでは、わが国の障害学生支援はどうなのでしょうか? レジュメの2をご覧ください。ここでは大きく二点について現状を説明します。
 第一に、障害学生支援に関する議論の動向です。レジュメに詳細をあげておりますが、2001年からメディア教育開発センターのSCS研修、これは通信衛星を用いたものですが、全国各地の大学に接続してもらい、研修と意見交換を行うというものです。年に2回のペースで実施しており、20〜30の大学が接続していますが、それぞれの大学で何人見ているかなどは分かっていません。
 また、日本学生支援機構が昨年から実施している障害学生修学支援セミナーがあります。これは各大学の事務系職員を対象としたもので、毎回定員をはるかに上回る参加申込があります。それほど目立って広報しているわけでもないのにこれだけの応募があるというのは関心の高さの表れだろうといった評価がされています。さらに、支援機構からは「障害学生の修学支援に関する実態調査」の結果が公表されまして、国の行政機関としてこうした調査をするのは初めてということもあり、新聞でも取り上げられました。ただ、この時の報道を見ておりますと、マスコミはあまり関心がないのではないかと感じられます。「ノートテイク」をノートの代筆と混同しているなど、内容を理解しないまま書いているという印象を受けました。
 第二に、私は昨年、メディア教育開発センターの特別共同利用研究員として、障害者支援とウエブ活用について調査しましたが、それに関する報告をいたします。冒頭に申し上げましたHEAGデータベースですが、日本にはこういったものはありません。研究員としての仕事は、日本にこういうものを作れないか、というところから始まったのですが、各大学のホームページを調査してみますと、障害学生支援に関する情報を公式ホームページに掲載している大学が実に少ないということが分かりました。国立大学については、昨年7月時点の調べで、全87大学中、情報があったのは5大学でした。筑波大、東京大、大阪大、広島大、愛媛大です。私立大学は現在調査中ですので詳しい数字は申し上げられませんが、長野大、同志社大など先進的な取り組みをしているとしてよく取り上げられている大学は、トップページからリンクされているなど、コンテンツが充実していることが分かっています。もちろん、ホームページに情報があることと実際に支援をしていることとは必ずしもイコールではないでしょうが、こうした結果から見て、ある程度の連関はあるだろうと思われます。
 各大学が積極的に情報を発信していれば、NIME-glad(ナイム・グラッド)というe-learningのデータベースの応用なども考えられると思いますが、データベースを作ったところで、載せる情報がない、というのが現状です。また、e-learningの場合はデジタル化された教材との連携が必須となりますが、そのやり方を障害学生支援に応用すれば、教材のデジタル化、テキストデータによる提供も可能になるかも知れません。

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 ここで、これまでに紹介してきたような既存の支援体制、そしてその研究における問題点を整理しておきたいと思います。レジュメの3番をご覧ください。大きく四点あります。
 第一に、障害学生支援という時の支援対象となる障害の範囲が限定されていることです。身体障害、中でも聴覚・視覚・肢体障害に限定されています。発達障害がようやく取り上げられてきていますが、精神障害、内部障害、あるいは知的障害をもつ学生への支援はほとんど議論されていません。特定の障害だけが支援の対象となり、それ以外が排除されるという構図は、障害学や障害者運動の視点からは不当なものであると主張すべきでしょう。
 第二に、学生本人の不在です。先に紹介した研修では、障害学生支援の専門家とされる人や、障害者を受け入れた大学が障害学生支援を語っていますが、支援を受けながら学んでいる障害学生当事者が語ることはほとんどありません。そして、専門家たちは当事者の声を代弁しているかといえば、そういうことはほとんどなく、専門知識に基づいて話しています。それは障害児教育、特別支援教育や、福祉といった「枠」に縛られたもので、こうした既存の論議に対し、障害学はそうした枠組みから離れてこの問題を考えるという視座を提示することが可能であると思います。
 第三に、第二点と関連して、現になされている、そしてそれでよいとされている「支援」のあり方が、本当にそれでよいのかということです。そしてこれは、第二点の誰が支援の中味を決めているのか、支援のあり方を規定しているのかという問題と強く関わっていると思います。以下、第二点、第三点についていくつか気になる点、考えておくべき点を例示します。
 まず、障害学生は支援を受けるために大学に来ているのではなく、大学生活の一部として障害学生支援があるのです。授業を受けることを第一義と捉えている学生もいるでしょうが、興味のない授業はサボって図書館で勉強したい、あるいはサークル活動をしたいという学生も当然います。これは障害のない学生がそうであるのとなんら変わりませんが、大学としては、授業での支援を第一にしていて、「講義保障」という言葉を使っている大学もあるぐらい、授業は支援するがそれ以外は支援しない、という限定を置いています。興味のない授業にはどうせ出ないから手話通訳は要らないけれど、講演会には通訳がほしいという要望は、実に自然なもののように思えますが、大学は「正課」を偏重していると思います。これは大学の視点でこの問題を語る弊害の一つの例でしょう。
 あるいは、こういう場合はどうでしょうか。ノートテイクのように、障害学生と支援の現場で実際に関係をもつ支援者がいますが、彼らと障害学生との間にさまざまな軋轢が生じることがあります。具体的には、障害学生が、通訳者が来ているから授業中に寝てはいけないと思ったり、逆に通訳者が、居眠りをする障害学生に腹を立てたりといった場面です。私はここで「通訳者がいても居眠りをする権利がある」といういい方はしませんが、しかし障害のない学生が居眠りをすること以上に批判されるのは不当であると思います。彼らはけっしてまじめな学生を演じる必要もないと言えます。そして、支援者と障害学生との間に起きる問題は、これまでは個人と個人の問題としてかたづけられ、障害学生支援の問題として取り上げられることなくきましたが、これらは両者の相互作用の中で起こる問題です。そして何より、現場では重要な問題です。
 しかし、障害学生支援に関わる研究で、これらの問題が取り上げられ論じられることはありません。ですから、問題の第四点は、研究における本人の不在です。そして研究の課題は、現実に学生はいたし、いるのですから、その人たちが思っていること、また実際にしてきたことを知り、記述することです。障害学生支援の発展の歴史は、大学によって自慢げに語られることがあります。しかし、支援体制が整う途上にあった交渉や闘争の歴史は、大学側によって語られることはありません。障害者が自立生活運動の過程でどのような闘争をし、何を勝ち取ってきたかを役所が語らないのと同じです。こうした歴史を忘却させないためにも、記述する作業が必要になってきます。そしてそれは障害学の使命だと思います。

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 以上、相互に連関している問題点を四つあげました。次に、基本的な問題点をもう一度繰り返し、そして、どうしてそうなっているのかを考えてみようと思います。
 すでに申し上げましたとおり、私は大学のホームページ調査などを通して、多くの大学が何を「学生支援」の項目としてあげているかを見てきました。奨学金をはじめとする経済的支援や、福利厚生、クラブ活動の支援やアルバイト紹介など、多種多様でしたが、ここで私は違和感をもちました。そこに想定されている学生というのは誰なのかということです。経済的支援や福利厚生はみんなに言えることですが、障害者がクラブ活動をする上での支援はほとんどの大学がやっていない。ましてや、障害学生に対するアルバイトの斡旋などしていないわけです。つまり、学生支援というものが、見える・聞こえる・歩けるといった、健常者といういい方はあまり好きではないですけれども、そういう学生に対するものとして構築されてしまっているのではないか、そこから障害学生が排除されてしまっているのではないか、ということです。
 石川准さんの「配慮の平等」という言葉がありますが、その考え方はここでも使えます。つまり、大学から支援を受けていたり、それらを必要としているのは障害学生だけではなく、実は障害のない多数の学生たちも大学側から多くの支援を受けているということです。大教室で教員がマイクを使うのは、後ろの席で聞いている学生に聞こえるようにするためです。地声では聞こえない距離で聞いている人たちは配慮されているのに、手話通訳やノートテイクがないと授業が分からない人たちにこうした支援をしないというのは、障害を理由に一部の学生を不当に扱っているということになります。ですから、これは明らかに不平等・不公平だし、さらにいえば障害者差別だ、と。
 ただ、こうした排除が意図的に行われたものではないということは確認しておく必要があります。もしもそれが意図的に、つまり障害学生に対して不当な扱いをするという明確な差別意識をもってなされているのであれば、大学側は糾弾されて当然でしょうが、そうではないだろうということです。むしろ、少なくともタテマエとしては、障害学生支援はなされるべきことであり、しなければならないこととして認識はしているでしょう。そして、仕方なく、場合によっては積極的に何かしようというところもあります。しかしうまくいかない。ではなぜななかうまくいかないのか。
 言うまでもなく、第一は、予算の制約です。学生支援に限ったことではなく、世の障害者に関わる問題の過半はようするにこの問題に帰着します。そして、これは困難な壁です。ここで一つには、その費用はすべて大学がもつべきなのかを考える必要があります。そして考えていけば、むしろそれは税金を使ってなされるべきことと捉えた方がよいはずです。このことは後でも述べます。ただこうした機構をすぐに実現することは難しい。だからやっかいです。しかしそれでも、とくに規模の大きな大学については、それなりのお金を用意することはできます。お金が足りないのではなくうまく運用できていないだけではないか。というか、お金はたしかに足りないのですが、そのお金を有効に使えていないのではないだろうかということです。
 第二は、今述べたこと、知識、ノウハウ、システムの問題です。仕組みを作り対応するという力に欠けている、要するに無知であるということです。先にも述べましたが、学生支援機構の実施するセミナーに多くの大学が参加し、そこで聞かれたのは「支援の必要は認識しているが、何をどうしたらよいか分からないから教えてほしい」という担当者の悲鳴にも似た声でした。「うちにはこうこうこういう障害をもった学生が入学してきましたが、障害者を受け入れるのは初めてで、授業の支援といわれても困っております」といった困惑でした。セミナーとそれに続く懇親会では、他大学の担当者と情報を交換し、少しでも多くのことを吸収して帰ろうという姿が見られました。大学は、支援に後ろ向きなわけでもなく、やる気がないわけでもないのですが、無知であり、事態を理解できておらず、事態に対処する力を欠いており、必要な仕組みを作ることができないでいるのです。

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 では、とくに今述べた第二の問題について、どうすればよいのか。これは、大学には智恵がないと述べたのですが、それはなぜなのかという問題でもあります。一つに、ないからない、としか言いようのないところもあります。ただもう一つ、本人たちに教えてもらえば分かるかも知れない。それを行なえていないということがあります。つまり、当事者の不在、ゆえに大学に智恵がない、ゆえに当事者が不在な対応しかできない、あるいは何も対応できないという、はじめに述べた現実ができあがるというわけです。
 ですから一つには、障害学生当事者の声を聞け、そして聞くだけでなく、体制作りに参画させよということです。障害学生修学支援セミナーの講師には、大きく二種類の立場の方がおられます。ひとつは先進的な取り組みをしている大学の職員、そしてもう一つが、障害者教育の専門家とされる人たちです。前者について、私自身が出席した部分について申しますと、支援の現場にいる職員というよりは、支援を管轄する部署の長(おさ)でした。しかもそのうちのある大学については、この部署に異動してきて間がないので障害学生支援についてはあまり知りませんが、といった前置きがありました。後者については私はさらに問題だと思っているのですが、視覚・聴覚に障害があることを入学要件としている筑波技術大学、あるいは国立特殊教育総合研究所といったところの方が講師に並ぶわけです。特殊な事情のある大学が通常の大学の障害学生支援を語るリーダーシップを取り得るのでしょうか。こうした動きは特別支援教育の中にもあり、分離教育をやっていた学校が転身したような特別支援センターよりも障害児を受け入れてインクルーシブ教育を実践している学校の方が、この問題を語る資格があるだろうし、他校も参考にできるでしょう。特殊な学校のやり方を地域の学校に取り入れるようはたらきかけるのは、施設や病院のやり方を、障害者の自立生活に適用するのと同じです。そしてそれが不可能であること、不適当であることは長年の障害者運動、そして障害学の蓄積で明らかです。
 ただここで問題になるのは、障害学生は少ないということ、そして障害学生は学生であるということです。障害学生の在籍率は0.16%と非常に少ないわけですが、さらに毎年一定程度入学してくるというわけではなく、視覚障害者が一人入学し、卒業してから十年ぐらい次の視覚障害者は入ってこないということが多々あります。また、視覚障害者向けに整備したものは肢体不自由の学生には使えない、といった問題もあります。こういった状況から、障害学生支援のノウハウは蓄積されにくく、十年前に買いそろえた視覚障害者用のパソコンは今では使い物にならないといったことが起きています。
 このことは学生の側から見た場合にも言えます。彼らの多くは高校を出てすぐに大学に入学します。視覚障害学生であれば、盲学校のような視覚に障害があることが当然とされているところから進学する人もいます。そうした人たちが大学に入り、いきなり「自分に必要な支援はこれこれです」と大学側に伝えることができるのか、ということです。大学にある程度の蓄積があれば別ですが、とくに自分が初めての場合は、自分に必要な支援が明確になり、それを大学側に伝え、そして実現する頃には、卒業しているかも知れません。障害者の生活は一生続きます。しかし学生である期間はその一部です。そして大学にいる障害者の数は少ない。だから組織的な運動にはなりにくい。このように、ノウハウの開発・蓄積・伝授は、大学側にとっても障害学生にとっても困難であるといえます。それをどうすればよいのか。
 まず、ひとつひとつの大学に蓄積されていなければならないという発想自体を疑ってもよいのではないかと考えられます。たとえば、点訳のノウハウを各大学が保有するというやり方もあり、視覚障害学生が一定数以上いる場合は、それも有効なやり方かも知れませんが、学外にそれを請け負う機関があり、大学はそれを外注するというやり方があります。実際、現在でも点訳を外部に委託する大学がありますが、たとえば福祉系組織の場合、障害者本人が依頼するのと大学が依頼するのとでは料金が異なる設定にしてある場合があり、これにより大学が発注するのをやめて、視覚障害学生本人にやらせる、というケースもあります。組織側の言い分としては、障害学生支援に大学が、とくに費用面で責任をもつべきというものですが、結果的に逆効果です。
 そしてこのことは学生の側、利用者の側についても言えると思います。まとまって要求するシステムの構築・維持に参画することが難しいことを先ほど述べたわけですが、その部分を補うために、学生の大学間を超えた協力体制がある方がよいでしょう。また学生だけで維持していくのが難しいとすれば、全国的な運動組織の協力を得る、いっしょにやっていくという方法もあり得るでしょう。運動体にとっても運動への理解を広げ、人材確保にもつながりうるという利点があるでしょう。また、障害学生や卒業生が中心となって、学生支援にかかわるサービスやノウハウを提供する事業体を作り、事業を展開すくという道もあり得るでしょう。
 そして、これはけっして大学当局や社会の責任逃れを助長するものではありません。自分たちに必要なものを他人に決められると他者に支配されてしまう。だから自分たちに必要なものは自分たちで決める。しかし、暮らすこと、障害学生支援でいうなら教育を受けることは権利であり、それを実現する義務は社会・大学にある。だからお金は出してくれ、と。
 障害学生当事者にとってみれば、お金を払うのが大学でも行政でもかまわないわけです。しかし、通学の介助という場面を考えてみますと、休みの日に映画を見に行くなら福祉サービスとしての移動介助を使えますが、大学に行くために使うことができないとされています。では大学がその費用を出すかといえば、そうでもない。そこに溝ができてしまっています。本人にとしてはどちらが埋めてくれてもかまわないわけですが、埋まらないと困る。障害学生が大学に交渉して支援を勝ち取るということもありでしょうが、障害学生と大学とがともに行政にはたらきかけるといった選択肢も残されているでしょう。また、移動介助は通学だけでなく通勤にも使えないわけですから、ここでも、運動体と共闘することが可能でしょう。
 このように考えてくると、ここでなされるべきこととここ数十年の障害者の運動との共通性は明らかです。自立生活運動とも呼ばれる運動の歴史は、行政の窓口で交渉しても取り合ってもらえない、聞いてもらえたと思ったのに相手は何も分かっていなかったといった埒のあかない状況に対して、それなら自分たちの自立生活は自分たちで作る、そのための仕組を自らが作っていく、そういう歴史でした。そしてそれは、同時に、そのための費用を社会全体に求める、そういう運動でした。すでに述べたように、障害者は一生障害者ですが、学生は一部の人の一時期の経験であるという違いがあります。また、負担を求める相手を、どの部分について大学とし、どの部分を社会、具体的には行政とするのかといった問題もあります。これらをこの主題に固有の問題として、考える必要、工夫し対応する必要はあります。ただこうした問題への対応の仕方も含め、障害者運動、そしてそれと連携し連動して興ってきた障害学が発案し実現してきた仕組みを、障害学生支援の中にも実現していくことが求められるでしょう。ですから、この場面でも、障害学は力が発揮でき、また力量が試されるだろうと思います。しかしそれは、まだほとんど何もなされていない、研究と実践の領野なのです。


UP:20060606
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