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障害学的視座からの「障害学生支援」再考
2006/06/03 障害学会 第3回大会

青木慎太朗(立命館大学大学院先端総合学術研究科)


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1.本報告の目的
 わが国において、高等教育における障害者支援の必要性が大学側によって認識され、それが大学の業務の一部に組み込まれたのはここ十年余のことであり、現在ではすばらしいとされる支援体制を有する大学にあっても、それ以前は教職員が業務の片手間として実施していたり、学生どうしの支え合いに依存しているといった状況であった。一方、アメリカ合衆国では1973年のリハビリテーション法504条、1990年のADA(障害をもつアメリカ人法)の影響を受け、各大学が支援室を設置し、障害が理由で不利益を被ることがないよう工夫が凝らされている。また、障害学生支援の取り組みがアメリカ合衆国よりも20年遅れているとされるEUでも、1987年より開始されたエラスムス計画――EU内の大学間で学生・教員の交流を促進することをねらいとしており、30カ国、1,800校以上が参加。2004年までに約75万人の学生と1万2千人以上の教員の交流が実現された――では障害をもつ学生・教員の行き来も想定されており、2004年からHEAGデータベースが導入され、17の国や地域の大学における障害学生支援に関する情報を13カ国語で提供している。
 本報告においては、こうした海外の動向をふまえつつ、わが国の障害学生支援の現状を整理し、当事者学としての障害学からどういった視座が提示できるのか、どういう課題が残されているかについて提起する。

2.障害学生支援の現状
 ここでは次の二点に絞って現状を整理する。
(1)障害学生支援に関する議論の動向
 障害学生支援について議論する場所として、2001年から独立行政法人メディア教育開発センター(以下NIME)のSCS(スペース・コラボレーション・システム)を使った遠隔地間研修がある。通信衛星を用い、年に二回程度の研修会が行われ、2005年度は20〜30大学の参加があった。毎回テーマを設定し、講師による研修と討議が衛星を使ってなされるが、すべて含めて二時間程度と限られている。また、参加するためには衛星の設備が必要であり、現在の参加大学数は十分とはいえない。なお、2005年10月の研修で発達障害者の支援が取り上げられたが、障害学生支援が身体障害(とくに聴覚・視覚・肢体)を中心に議論されてきたことを思えば、画期的なことといえる。また2005年はもう一つの大きな変革があった。日本学生支援機構が障害学生修学支援セミナーを主催し、地域ごとに先進的な事例を紹介してそれをもとに参加者と議論を交わす場が設けられた。ここでは大学で支援に携わる事務系職員を参加者として想定しているが、毎回定員を上回る申込があり熱心な議論が交わされている。2006年2月には全国規模のセミナーが東京で開かれたが121人もの参加があった。さらに、こうした流れと並行して、2006年1月には「障害学生の修学支援に関する実態調査」が公表され、新聞でも報道された。
(2)障害者支援ウエブサイト
 HEAGデータベースのようなものは日本にはない。あえていうなら、全国障害学生支援センターが独自の調査に基づいて情報を集約したものが存在するだけである。そもそも、大学が障害学生支援に関する情報をどれだけウエブで公表しているのかということを調べてみると、たとえば国立大学87校のうち、掲載があるのはわずか5大学であった。この状況ではNIME-gladのようなe-learningデータベースの応用を考えても、載せる情報がない。ところで、e-learningでは教材の電子化が不可欠であり、そうしたコンテンツとデータベースの連携が進んでいる。これは紙媒体の教材よりデータがよいという視覚障害者の支援に活かせるのではないかと思われるが、出版物のデータ提供は著作権の問題や出版社からの理解・協力が得られないことなどから、遅々として進まない。

3.障害学的視座からの問題提起
 前述した現状に対しては、さまざまな課題の提起が可能である。第一に、現在障害学生支援の議論でほとんど取り上げられていない内部障害、精神障害をもつ学生に対する支援に議論を拡張することである。聞こえていない学生に対し音声を介してなされる授業をいかにして伝えるかということと、1コマを座ったまま聞くことが困難な学生をどう支援するかということとで、前者しか議論されないというのは不当である。
 第二に、現在の障害学生支援の議論は、障害学生を受け入れた大学・そこで支援に携わる職員・専門家とされる人たちによって語られてはいるが、支援を受けて学んでいる障害学生本人の語りというものが不在の状況ではないのか、ということである。研究対象となっている障害学生にとって支援は大学生活の一面を切り取ったものにすぎず、大学に対して求めているものも、そのレベルもそれぞれ異なっていて当然である。そうした視点から、障害学生本人の視点を導入することが重要であると思われる。大学が支援を充実させても、けっして彼らにはまじめな障害学生を演ずる義務もなく、たとえば、通訳者がいるから授業中に寝てはいけないと思ってしまったり、他者からそのよう思わされたりすることは、それが障害に起因するものである限りは不当である。また、障害学生と支援に直接携わる人との間に問題が起こることがあるが、現在行われているような調査研究では、こうした問題は個人間の問題として障害学生支援の問題とはならないが、障害学生・支援者双方にはとても重要な問題である。さらに、障害学生支援を大学側の視点で言説化したとき、大学にとって都合の悪い出来事は意図的に/あるいは意図せざる結果として隠蔽されるという「忘却の歴史」が存在することを見落としてはならない。当事者の語りを通してそれらは言説化されねばならず、そうした作業は当事者学の使命ともいえるであろう。
 第三に、大学における学生支援がいかに構築されたものであるかという点にも注目される必要がある。授業だけでなくさまざまなキャンパスライフにおいて、支援する対象として大学側が想定しているのは、見え・聞こえ・歩ける学生(=健常者と呼ばれる)の姿ではないだろうか。大学のホームページ調査に携わり、全国津々浦々の大学と出会う中で、「学生支援」の項目からはこうした学生像しか見えてこない。「配慮の平等」ならぬ「支援の平等」という点から考えれば、障害学生支援をいう以前に当然のごとく支援を受けている多数の学生がいること、大学がそうした環境を構築していることこそ、問題とすべきであり、障害学生支援という営みがいかなるロジックによって正当化され得るのかという議論は、こうした前提の上になされるべきである。


UP:20060606
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